帝国ホテルの味が一般家庭で再現できる!!!《シャリアピンステーキ》編🥩
日本のホテル発祥のステーキとは?
今晩は。珍しく早く終わりました。グットでホワイトな一日です。いつも沢山の方の名前も覚えきれないほどの好き♥やフォローを頂き誠にありがとうございます。
感謝と感激でいっぱいです。
note初心者としては考えもしなかった素晴らしい現実が今ここにあるのです。今日は何故「すずらん」爺爺が料理の道に入ったのかをお話したいのです。
大昔のことなので、記憶を辿りながら書いていきたいと思います。
北海道の山奥の炭鉱で育ちました。食べ物と言えば月一のカレーライス、ニシンの味噌漬け焼き、
インスタントラーメン(特に丸ちゃんのダブルラーメン2個入り)それにイカの塩辛が大好きだったです。
大晦日は親父が酒を飲んでいて、
お袋が家の中にある石炭ストーブで作る生ラーメンがご馳走でした。学校に持っていく弁当は
いつもおかずは玉子焼きだけ
ご飯の上に梅干1個、みんなそれぞれ生活が違い堂々と弁当を食べている友達は少なかったです。
おかずを上半身で隠して食べていました。今では想像つかないと
思いますけどみんな貧しかった
んです。
すずらん爺爺はお袋が玉子焼きしか弁当に入れてくれないから、体力がなく栄養失調になって力が出ませんでした。
北海道は海に恵まれています。
鯨の肉がカレーに入っていれば
魚ではなく肉だと思って食べていました。
山奥の炭鉱には中学までしかなく
高校のある近くの町まで1時間半
もかかって通学してました。
しかも冬は石炭ストーブで顔が真っ赤になるほどあったかくローカルな雰囲気の中で通学してました。
すずらん爺爺の幼少期は日本全国
黒いダイヤと言われた石炭がエネルギーの全盛期でした。
ところが高校2年の夏頃から来年の春には閉山になると、噂になりました。石炭産業の斜陽化です。
とうとう来たかなと内心思いました。高校は何とか卒業出来そうなのです。その後の進路を真剣に考えました。
15歳頃から船乗りになりたいと
思うようになりました。そして
その希望は炭鉱閉山で閉ざされそうでした。
親父の炭鉱閉山でお金が無く大学はいけない!
海や船の勉強が出来る学校しかも
全寮制の国家公務員給与も毎月支給されてこれ以上の仕事はないと
思いました。
公務員試験の問題集を徹底的に
最初から最後まで何回も繰り返し
やりました。ボロボロになるまで
所構わすず時間が許す限りやりました。
同じ問題集でも十回以上繰り返しやっていくと不思議なことに何故か自信が湧いて来ました。
続けることで自信がつき力が湧いて来たのです。
基礎力と応用力がついたのでしょ
うか?
お金をかけず学校に行こう!船乗りになろうと決心したのです。
海上保安学校しかないと思い更に問題集と格闘しました。
一次試験では十人ほど通りました。
北海道の山奥の炭鉱で育った
「すずらん」爺爺は海上保安学校の二次試験を受験するために第一管区海上保安本部のある小樽に行きました。
一人旅、宿泊、旅館、夕食、料理面接、体力試験と全てが初めての経験でした。
その中で泊まった旅館の夕食に出されたあるものが、何だか得たいの知れない見たことがないのです。どうやって食べるのか分からず残しました。
家のご飯には出てこないおかずでした。
世の中には食べたことのないもの
知らないことがいっぱいあることを知りました。
後で分かったんですがそれは生牡蠣の酢の物でした。
それで面接の時、学校のどの課に
進むかと訪ねられ即座に船の乗組員の食事担当の部署「衣糧課」を
希望しました。
合格する道を選択したのです。
花形の航海課や機関課は競争率が高いので諦めました。
とにかく全ては合格しなければ
何も始まらないと腹を決めていました。
高校を卒業した3月閉山ギリギリのところで遂に合格したのです。
海上保安学校は京都府舞鶴市にありました。4月に入学し海上保安に必要なあらゆる授業を受けました。
そんな中何より楽しかったのは
調理実習でした。いろんな料理を学び世の中にはこんな旨いものがあるんだと感動しました。
料理を教えてくれた教官は堂々とした体格の方で若い頃東京の
帝国ホテルで修行されたと伺いました。
すっごく感動し料理は全てが美味しかったです。
その中の1つにシャリアピンステーキがありました。聞き慣れない
メニューでした。
どこの国の料理かわかりませんでした。
この頃からすずらん爺爺は真剣に料理と向き合い始めました。
私の人生を変えてくれたのはまさに今思うと…料理でした。
このお話は永遠に続けたいです。
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