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一月十日

凶刃の野を行く薄弱の王

 「キングダム」には考えさせられる台詞が沢山あります。 当今の名台詞などより吟味すべき言葉は、決め台詞よりむしろ何気ないシーンにこそ誠の価値があるのです。


出典「キングダム」嬴政

だから言ったろう、凶刃の野を行く薄弱の王だと

「キングダム」玉座奪還戦篇より


《荒筋》

 秦国の下僕の少年に漂と信という秦国の下僕の少年がいる。少年達は下僕の身から這い上がろうと木剣で剣技を磨き、戦場で出世して何れは天下の大将軍になろうという夢を共有していた。

 そんな少年達の前に秦国の大臣・昌文君と出会う。兄弟で玉座を争い、その過程で親友・漂が殺される。悲しみつつも信は遺言に従い、秦国の王子・嬴政と出会う。
 信は漂の夢を叶えるため、王子の玉座奪還に手を貸す。逃避行で一緒になった河了貂と三人で行動を共にする。

 王弟側は刺客を放ち、ついに嬴政の元に迫る。王子を守るために信は刺客と戦う。
 刺客を倒し、昌文君一行と合流できた三人ですが、肝心の味方がいないということを知らされて信は驚愕する。

  嬴政が信に再度、自分の置かれた境遇を語ったのが上記の台詞。


《解説》

❤️不幸が無い、不幸を知らない人は世界に皆無です。疑うのは見えない知らないだけです。

 人は平等と言う言葉がある。だがしかし、人は自分の力で誕生することはできません。
 また誕生したとしても体力が無くて健康でないことも有り得ます。人は誕生という始めから既に平等といえないのです。

 父母両親がいて始めて自分が人の世に産み出されます。その誕生した後の環境次第で裕福か貧困かまた中間かと様々であり、平等とはとてもいえません。

 また財産権力も永続するとは限らず、嬴政のように幼少期は生き地獄を味わう人生もどこかに必ずあります。
 幸せとは不幸が少ない、唯それだけなのかもしれません。

❤️誰しも不幸を持っている、これが平等であります。不幸の種類は自分の人生次第でこれを個性というべきかも知れません。

 凶刃の野を行く薄弱の王。嬴政は自分をそう表現しました。ですが、凶刃の野といえなくても、誰もが生きるために歩く道途上で障害苦難は遭遇していくのです。

 嬴政は自分の道が誰も歩こうとしなかった道だと知っているからこそ凶刃に囲まれる覚悟を持っています。
 人生を歩くなら困難はあります。ましてや自分が目指した目標目的があるならそれは道を歩くことで苦難が無いことすら不自然でしょう。

❤️目的目標へ向かって歩けば道ができる。 どうせ不幸困難が降りかかるというのなら、自ら定めた道を・・・。

 人生は生きる限り不幸困難がつきまといます。その困難は生きているだけで周りから現れるものです。

 ですが目的目標があり、それに向かって歩くのであれば不幸困難は余所からのものでなく自分のための苦行とはならないでしょうか。
 苦行は克服すれば自分の境地を得られます、それが悟りであろうと勝利であろうと等価の筈です。

❤️学んで働いて生きる目的目標を見つけたら逃してはなりません。 

 薄弱の王と言った嬴政ですが目指す生き方に後悔は微塵も無いでしょう。
 
 孔子も「朝に道をきかば夕べに死すとも可なり」と言っています。自分の道を見つけた人は自分の未熟非力を隠すことはしません。 そのような悔い無き生き方に人は惹かれます。

❤️自力の未熟非力を偽らないことは強くなれる第一歩です

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