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読書#20-3「ルトワックの日本改造論」著:エドワード・ルトワック、訳:奥山真司

この記事の位置づけ

「ルトワックの日本改造論」の読書録。以下の続き。

気づき

日本の軍事戦略おかしいよ!

国防というのはエンジニアが発明に取り組むような化学技術の開発ではない。実践の役に立つために、ごく短期で成果が求められる世界なのに、(イージスアショアの十年計画にような)長期計画を立てるのは意味不明で、完全に間違っている。

ルトワックの日本改造論

 イージス・アショアとは弾道ミサイル迎撃システムである。私は軍事に明るくないのでざっくりとした理解になるが、あれだよ、なんか、ミサイルとんできたときに、ぴゅーって撃ち落とすシステムだよ、たぶん。

 問題は、このシステムが10年計画で行われていたことだ。

 間に合わなくね?

 国家安全保障として防衛システムは大事だ。けれども、それは今すぐ必要なのであって、そんな時間をかけていいものではない。実際問題として、明日できあがるとか、そういうマンガ染みたことはできないとしても、今すぐ何かあってもいいように、”現状できるかぎりの対策”をしておくべきだ。

 それができるのが10年後て。だめじゃない? という指摘である。

 さらにいえば科学技術の発展はすさまじい速度で進んでおり、10年後にはもはや時代遅れの無用の長物となっている可能性もある。

 常に最先端のものをキャッチアップしておくべき。そのために軍事費が足りなければ挙げた方がいい。少なくとも最先端の軍事設備があることは、国家安全保障を為すうえで最低限やるべきだ。

 ゲームで考えるとわかりやすい。逐次アップデートされ配布される装備。それらはスペックがインフレし続けるため、いくらプレイングが神でも古い装備では勝てやしない。戦争だって同じだ。

日本に核持てと言っているわけではないのよ

核抑止力は、分別のある者に対してだけ働く

ルトワックの日本改造論

 確かに。

 おまえ、攻めてきたら核撃つぞ! と言っても、それが何か? もうどうなってもいいんですけど? とか言う分別のない奴相手だったら意味がない。

 そんな国ないのではとも思えるが、相手国に期待するのは楽観主義というものである。戦略は常に悲観的であるべきだ。ここでの悲観的思考は、相手国はもしかすると分別を持っていない可能性がある、と想定することである。

 たとえば北朝鮮。かの国に理性はあるのか? あると想定して動くのは危険だろう。とすれば理性的でない国に対して核抑止は効くか? いや、効かないだろう。

 ゆえに、著者は日本は直近として核を持つ議論ではなく、単純に通常兵器の強化をはかり、先制攻撃能力を備えた方がいいと述べている。

 核もっていると言っても攻撃してくる。だとしたら、攻撃してくることを前提にして、攻撃しようとしてきたらその前に基地をぶっ壊す。

 今、日本は軍事的にそのような方向へ動いているように思える。ウクライナ戦争が、日本にとっては、危機感をもたせる点でいい方向に作用したのかもしれない。

 

「経済上の結びつきが強ければ戦争が起きない」は幻想

もし人類が経済的な利益を計算立てて行動するならば、この種類の歴史がこれほど長い罪と愚かさのリストに彩られることもなかっただろう。

ルトワックの日本改造論

 人は合理的に行動できない。それは歴史が証明している。

 とすると、経済上の結びつきが強ければ戦争が起きない、という思想はなりたたない。少なくとも歴史が否定している。

 上記の思想は、国家が理性的な判断をくだすという楽観主義を前提としている。私も、ふとするとそう考えてしまう。なぜなら、理性的に行動した方が、みな幸せだし、儲かるし、平和だ。

 しかしながら、現実はそう動いていない。その点に目を向けない、もしくは、悪人が善人へと諭される可能性に賭ける、ような行為は、あまりに現実的でなく、不毛だ。

 人は愚かだ。

 そのことを忘れずに、不合理な判断によって戦争が起きることを想定し、そうなったときのための戦略を練っておくことは、国家安全保障にとっては当然のように必要だ。

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