テツガクの小部屋9 アナクサゴラス
アナクサゴラスの哲学は、多元論的な考え方を導入することによって、エレア派の一者の思想とヘラクレイトスの万物流転思想を調停しようとしたエムペドクレスの試みをさらに推し進めたものである。彼は混合され、分離されるものを火・水・空気・土の四元素とは考えず、それを無数にあり、無限に小であるものとした。このような原質を彼は万物の種子(スペルマタ)と呼ぶ。それゆえ無限に小さい無数の種子の混合と分離から万物は形成されているというのが、アナクサゴラスの命題である。
種子は同質的な物質の質的単位として構想されたものである。それはそれ以上分割できない均質的な最小の単位、例えば不可分な粒子と考えられてはならない。彼によれば、種子は無限に分割可能だからである。それゆえ、そもそも最小も最大もない。彼は大小を相対的な規定にすぎないと考えたようである。「各々のものは自らに比べて大きくもあれば、小さくもある」
物質のどのような部分をとってみても、均質的な元素に突き当たることはないのであって、そのいかなる部分も純粋ではありえない。それゆえ均質的な単体は存在せず、どのような物の中にも潜在的にはあらゆるものが含まれている。彼によれば、一定の同質的な性質を示しているものの中にも対立するものの若干は含まれているのである。「雪もまた黒い」とアナクサゴラスは言ったといわれている。
彼の認識論はエムペドクレスのそれと反対であり「感覚は反対のものによって生じる」という。熱いものによって冷たいものが、塩水によって真水が、辛いものによって甘いものが認識されるのである。それゆえすべての感覚には苦痛がともなうという。
参考文献『西洋哲学史―理性の運命と可能性―』岡崎文明ほか 昭和堂
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
棒線より下は私の気まぐれなコメントや、用語解説などです(不定期)
↓
「雪もまた黒い」に近い名言(迷言ともいう)を、大学の卒論に書いた記憶がある。プラトンのイデア論(『国家』10巻)についての研究?のつもりだったが、イデアの分有説について、その分有には対象となる自然界の物について、イデアの分量に多寡があるのではないか、という考えからだ。例えばバラの花は美のイデアを分有しているとして、目の前の林檎もコップも、量の差こそあれ、美のイデアを分有しているのではないか、という考えである。
また「感覚は反対のものによって生じる」については、先のエムペドクレスと正反対である。どちらが正しいとも言えないが、どちらも正しく思えてしまう。近現代ではこのようなことは少ないが、古代ギリシア哲学では、ゼノンのパラドックスをはじめ、このようなトリッキーな説がよく出てくる。が、例えばこの認識論を、科学の発展により片づけてしまうだけでは、何とも味がない。ゼノンのパラドックスにアインシュタインが苦戦したように、我々も、今では答えが出ている分かり切ったことに関して、あくまで哲学の観点から、考えてみる必要がある。(それをする人間が少なくなっているので、日本の大学には「哲学」ならぬ「哲学学」をしている者がはびこっているのである。)