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【感想文】N響&シャルル・デュトワ@NHKホール10.30(後半)

3曲目 イーゴリ・ストラヴィンスキー バレエ音楽「春の祭典」
この曲もさまざまな版で聴きこんだ曲である。だが版(あるいは指揮者?)により、かなり異なり、箇所によっては「違う曲なのではないか?」と思われるくらいの差異があるので(よって演奏時間も異なる)、この日の演奏も楽しみにして来た。

ストラヴィンスキー(1882―1971)の「春の祭典」は、1913年にディアギレフ率いるロシア・バレエ団がパリで初演した際に大騒動を巻き起こしたという有名な話がある。(ちなみにこの時の振付はニジンスキーである。)
初めてこの曲を聴いた時の衝撃はいまだに覚えているが、前衛と一言にくくってよいものか、現代音楽に入るのか、その一歩手前のギリギリで、何とか(私の中での)許容範囲のスレスレに位置しているか、聴いただけで心に混乱が起きた。

ジョン・ケージやマルセル・デュシャン(便器を逆さまに置いた)を私は芸術家だなどと呼ぶつもりはさらさら、ない。こういったものはよく「先にやってしまった者勝ち」みたいに言われるが、私にしてみれば「芸術」という言葉や概念に対する冒瀆以外の何ものでもない。その延長線上で、だから、極端に前衛的であるとか、現代音楽と呼ばれるものだとか、要はもはや「音楽」の定義を崩壊させている(音楽の三要素のどれかが欠落しているなど)ものは、私は受け入れがたいのだ。(もっとも、個別にみていけば、ベルクだとかシェーンベルクなど、後期ロマン派と現代の狭間?といった—ブーレーズなどにもつながる―実に微妙な作曲家・楽曲も存在するのだが。)

「春の祭典」でも斬新な要素が多く取り入れられている。不規則なリズム(だがリズムはリズムだ)、ハーモニーと言うにはほど遠い和音の連打、つまりは同じ楽曲の同じ時間に異なる調が同時に演奏される、いわゆる「多調」だが、これにより立体的な効果を狙ったというよりは、聴きようによっては単なる失敗にも聞こえなくはない。また、変拍子も満載である。殊にこの曲は踊り(体の動き)の表現された曲でもあるので、ストラヴィンスキーにしたらごく自然な取り入れ方だったのかもしれない。ちなみに変拍子はほかにバルトークなどにもよく見られる。バルトークもまた微妙な位置にいる作曲家であるが、私の中では「ギリギリ」のラインにおり、現代にどっぷり浸かりすぎて音楽を壊してはいない作曲家の一人である。

さてこの日の演奏だが、テンポは遅め、音(各楽器)はかなり各々主張しすぎで、競合してしまっている感じである。ただ、荘厳さ、厳かな様子はよく表現されていた。各楽器が独立していながらも、結構ぐじゃぐじゃに混ざり合うのだが、全体的に大きなうねりは出ていた。それが「まとまり」であるかはまた別である。そもそもこの曲に統一感を求めるべきではないのかもしれないなんてことも思う。

荘厳さ、というのは、死者や先祖や大地や神などといった畏怖の念を抱くものに対する、人間の厳かな態度、というべきか。
弦の奏者たちは全体でリズムを大きく刻んでいる。体を大きく揺らして、音を奏でる、というより、大きなリズムをたくさんの弦たちが同時にとっている。もちろん、震えるような細かい響きを奏でたりする場面もあるが、弦の一番の目的はリズムを刻むことではないかと思えてしまう。

1部「大地礼賛」第2部「いけにえ」からなるが、実際はこれがかなり細分化されて14のパーツからなる。日本のアミニズムやフランスの歴史を思い浮かべても、全くお門違いである。イーゴリ・マルケヴィッチの指揮による名盤があるが、私はやはりその演奏が素晴らしいと思った。この日の演奏は、いうなれば、マルケヴィッチの演奏を因数分解したような感じである。また、肌で演奏を感じながら思ったのは、時間芸術としての音楽ではなく、やはり音楽は空間芸術的な要素も持っているのではないかということだ。決してBGMという意味ではなく、あくまで積極的に空間を演出するものとしての、音楽である。

さて、複雑な人間というものが、いけにえを捧げて大地を礼賛し、先祖の霊の降臨する儀式を行う、などといったこの「春の祭典」の意味内容を表現するには、こういった野性的な演奏にするしかなかったのではなかろうか、とも思う。
複雑なリズム、異常な和音進行、強烈なダイナミクス、そしてそもそもの「古代の異教の儀式(特にいけにえ)」といったテーマの過激さ、これらに加え、ニジンスキーによる、従来の優雅なバレエとは対照的な、激しく原始的な振付。これだけの要素があれば「音の野蛮行為」と酷評されたことにもうなずける。

まとめると、私はこの曲が嫌いではない、むしろ好きである。このようなテーマがなぜ選ばれたかはさておき、一旦テーマが据えられたからには、この音楽はこのテーマをよく表現している。原始的で力強く、緊張感を保ちつつ進行し、圧倒的な熱量をもつ。この曲における予測不可能な展開は、ラヴェルやドビュッシーのそれとはまた次元が異なる。ラヴェルらが、その先にカタルシスを見据えた上での、危うい音(や和音)の進行を練っていたとすれば、ストラヴィンスキーの曲の展開は「音楽美」を追求していたとは思えず、むしろ「音」と「リズム」(メロディは別だろう)に忠実になりすぎたからこその、変拍子であり、多調であり、鳴き声のような弦であり、同時にリズムを刻む弦ではないのか。そして初演当初は「音の野蛮行為」と評されたにもかかわらず、いまだ各地で影響を及ぼしつつ演奏され続けているのには理由があるはずであり、それは私たち聴き手も、この曲を「聴きたい」からであり、その魅力の最たるものは、この曲においては音楽美であるというより、太古の昔から刻まれた人間の原始的な力そのものへの共感であって、そのことは、この曲がその人間らしさ、人間の持つ普遍的な、根源的で原始的な力を、非常によく表している、という、何よりの証左ではあるまいか。


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