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ミヤケマイさんにお話を伺いました。
ミヤケマイ
日本の伝統的な美術や工芸の繊細さや奥深さに独自の視点を加え、 過去・現在・未来をシームレスにつなげながら、 物事の本質や表現の普遍性を問い続ける美術家。一貫したたおやかな作風でありながら、鑑賞者の既成の価値観をゆさぶり、潜在意識に働き掛ける様な作品で高い評価を得る。 斬新でありながら懐かしさを感じさせるタイムレスな作品は、 様々なシンボルや物語が、多重構造で鑑賞者との間に独特な空間を産み出す。 媒体を問わない表現方法を用いて骨董・工芸・現代美術・デザイン、文芸など、既存の狭苦しい区分を飛び越え、 日本美術の文脈を独自の解釈と視点で伝統と革新の間を天衣無縫に往還。
主な展覧会では、金沢21世紀美術館 東アジア文化都市2018金沢「変容する家」(2018)、釜山市美術館「BOTANICA」(2018)、大分県立美術館「アート&デザインの大茶会 マルセル・ワンダー ス、須藤玲子、ミヤケマイ」(2018)、ICOM京都大会/二条城・世界遺産登録25周年記念「時を超える : 美の基準 Throughout Time: The Sense of Beauty」(2019)、個展では、しぶや黒田陶苑「神在」、壺中居「兆し」、ポーラ美術館「天は自らを助くるものを助ける」、メゾンエルメス「雨奇晴好」、水戸芸術館 現代美術ギャラリー「クリテリオム65」ほか多数。2018年〜2020年「SHISEIDO THE STOREウィンドウギャラリー」、2020年「クロスフロンティア京都芸術大学美術工芸学科選抜展」のキュレーション、「ACTIVATE KOGEI+ART」のコミッショナーとしてキュレーションを務められるなど幅広い活動を展開する。羽鳥書店などからは計5冊の作品集が出ている。最新作品集「反射」を2022年に刊行。
2008年パリ国立高等美術大学校大学院に留学。
京都芸術大学(旧京都造形芸術大学)特任教授。
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現在、ギャラリー京都寺町菜の花にてミヤケマイ個展「春告(はるつげ)」が2023年1月23日(月)まで開催している。展示を拝見した帰りにこの文章を追記しているのだが、ミヤケ先生が持つ繊細さと奥深さを兼ね揃えた感受性の高さが空間の隅々まで行き届いていて、その空間の中に溶け込みながらも作品一つ一つが凛とした姿で佇んでいた。それらに触れたときに生じた心の内側の動きを形容したいと思うが、それに相応しい言葉がなかなか見つからないから困ってしまう。でも、無理に言語化する必要がないまでに水のように透き通った様子で届いてくる何かがあった。これを今読んでいる画面の向こうの皆さんにも会期が終わるまでに実際に足を運んで感じていただきたい。私の言いたいことが何となく、でも確かに伝わるはずだ。展示の感想をただ一言ここに書き残すなら「美がそこに在る」だ。
(※展覧会は終了しました)
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ミヤケマイ個展
「春告」
会期 : 2023年1月12日-1月23日
時間 : 12:00-18:00
休廊 : 水曜日
会場 : ギャラリー京都寺町菜の花
(京都府京都市中京区下御霊前町633)
[作家在廊日]12日、14日、15日、21日、22日
※この日程以外にも会期中は出来るだけ在廊しております。
[お問い合わせ]Tel : 075-708-7067
ギャラリー京都寺町菜の花の企画
http://utsuwa-nanohana.com/?p=3476
うつわ菜の花 instagram
https://www.instagram.com/utsuwananohana/?hl=ja
この記事は、そんなミヤケ先生にインタビューした内容を公開したものになります。その内容に入る前に、ミヤケ先生がどういった方なのか皆さんと簡単に振り返っておきたい。
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ミヤケマイ先生は、私が通う京都芸術大学基礎美術コースの先生だ。基礎美術コースとは、日本の伝統文化や伝統工芸を幅広く学ぶコースで、茶道やいけ花、日本画や能楽、漆芸や漢詩など多種多様なジャンルを、その道の先生方にお越しいただいて座学と実技を持って学んでいる。そんなコースをアルトテック代表の椿昇先生とミヤケ先生のお二人で作られた。
美術家としては、東洋、日本の美意識や哲学を軸に、工芸、文芸から人工知能まで、現代美術のインスタレーションなどで領域横断しながら作品制作に取り組まれている。
金沢21世紀美術館での茶室の展示や、森美術館の南條史生さんと彫刻家の名和晃平さんの企画展で二条城で展示、音と映像と言葉を駆使した横浜にある美術館での展示、瀬戸田にある温泉旅館Azumi Setodaの大浴場では天然石のモザイク作品を手掛けられた。他にも、「ACTIVATE KOGEI+ART」のコミッショナーとしてキュレーションを務められていたり、講談社などから2冊小説を出されていて活動は多岐に渡る。
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2022年7月8日(金)朝8時、滋賀にあるミヤケ先生のアトリエに伺い、そこでインタビューをさせていただけることになった。かなり朝早い時間だから恐縮だ。インターホンを鳴らすと「どうぞ入ってー」と、聞き慣れたいつもの透き通った声が届いてきた。
階段を登り、もう一つのドアを開けると観葉植物を手に抱えたミヤケ先生が奥から顔を出した。「谷口くん、おはよう。この子たちを下に運ぶのを手伝って。美術館の展示でしばらくアトリエにいないから、日当たりのいい場所に移さないといけないの。」私は反射的に「分かりました!」と言って観葉植物たちを受け取り、日の当たる場所に移動させる。ミヤケ先生は朝から忙しい。
観葉植物を運び終わったあとは、さっぱりとした酸梅湯と甘いメロンをご馳走になりながら軽い雑談をした。その間にも、朝の白い光がぼんやりと室内を満たしていくのを感じた。琵琶湖が近いせいか、窓の外から水の気配を感じる。
言語化が難しい上に勝手な印象だが、この方からはどこか透明なイメージを感じ取れる。ミヤケマイという人物像もだし、そこから生み出される言葉や作品に白さを纏っている。例えたら光の三原色のような人だと思う。混色してグレイッシュに濁るのではなく、色が重なるたびに白く昇華されていく。その過程が美しい人である。
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ミヤケ先生はどのように世界を見ているのだろうか。今回のインタビューを通して皆さんと少しでも知ることができたらと思う。以下の通りに話は進行されるので、読む際の参考にしていただけたらありがたい。質問の内容は、人間にとって普遍的で抽象的な問いについてだ。
【質問リスト】
Ⅰ 個であって個でないもの
・「ミヤケマイ」とは何者ですか?
・「美」とは何ですか?
・「色」とは何ですか?
・「香り」とは何ですか?
・「白」とは何ですか?
Ⅱ 弱い強さ
・「仕事」とは何ですか?
・「人間」とは何ですか?
・「嫌う」とは何ですか?
・「愛」とは何ですか?
・「恋」とは何ですか?
・「男らしさ・女らしさ」とは何ですか?
Ⅲ 買うことはサポートシステム
・「お金」とは何ですか?
・「アートを買う」とは何ですか?
Ⅳ 確固たるもの
・「成功」とは何ですか?
・「幸福」とは何ですか?
Ⅴ 銀鼠の声
・「死」とは何ですか?
・「普通」とは何ですか?
それでは、インタビューの幕開けです。
Ⅰ 個であって個でないもの
ーミヤケ先生にとって「ミヤケマイ」とは何者ですか?
ミヤケマイというのは本名なんですけど、ミヤケとマイの間にスペースを入れずにカタカナで一語にしたのには理由が2つあるんです。1つ目が子供でも外国人でもすぐに読むことができるからです。2つ目が、ミヤケという祖先からもらった名前とマイという固有名詞が分化できない1つのものであることを示したかったからです。
人間というのは、過去の祖先や風土、環境といった自分ではないものから影響を受けているものと、自分固有の何かが一つになっているものだと思っています。ミヤケマイもそういうものだと思います。今までの先人、親とか周りとか祖先とか、ひいては日本人や日本っていう国が積み上げて行ったものを引き継いで、自分固有の過去と現在から未来へ繋いでいく個である。私たちは、個であって個ではない存在です。
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ーミヤケ先生にとって「美」とは何ですか?
私にとって美というのは、人を動かすものだと思います。何かに本当の意味で触れて感動するということ。触れることにはいろんな形があります。物理的に触れることも触れるだし、見ることや考えることも対象に触れることになる。私にとっての美は、全身で見る・全身で触れる瞬間であると思います。 目だけで見るとか、手だけで感じるとか身体の一部だけを使うと腑に落ちない。どこか納得できていない気が自分はするんです。全身で触れて感動したときは、何かが見えたり分かったような、言語化できないところも含めて理解できたと思えるような瞬間があります。それが起きたときにどうなるか、多分人は動くと思うんです。感動は人のモチベーションになるし、行動に変化を起こすのが美ではないでしょうか。
ー地中美術館にあるクロード・モネの『睡蓮』を観たときに、ミヤケ先生がおっしゃられたような「美」の体験をしたように思います。ミヤケ先生がアート作品で「美」を体験されたものはありますか?
難しい質問です。自分が感動した作品を思い返すと、ある一定の私の心のありようと、その場所に私の場合は影響されるところがあります。ディア・ビーコンで見たアグネス・マーティンとか鎌倉近代美術館で見たホルスト・ヤンセンとか、どこかの場所に行った体験込みで入ってくる傾向があります。素晴らしいと思える作品はたくさんあるのですが、1から10まで全部好きな作家は多分いないので作家で好みを特定するのは難しいです。海や山を見て感動するのと同じように感動できる作品に出会うとすごいなと思います。そもそも私は美術館の中の作品よりも、自然物や現世のリアルなものに動かされるタイプではあるんです。美術館に行かずとも日常生活の中で、小まめに感動して満足どころかお腹いっぱいになる傾向があります。美術展などは自分が作家のため作家の作意や事情が見えたりすることがあり、純粋に見れないところが若干職業病的にあると思うんです。残念なことですけど、作家になる前の幼少期のほうが純粋な鑑賞者としての感動が多かったような気がしていて、作家になって失うことの一つのような気がします。作家になったことでより作品を深く別の角度から見ることができるようになる、全体の中での作品の立ち位置などが見ることができるようになる、など別の良さはあると思いますけど……
美術史はあまり興味がないんです。その上、作家がどういう人生を送ってきたのかということにもほとんど興味がなくて、作品を見る上ではいらない情報だと思っています。純粋に作品から何を感じ取れるかが一番楽しいので、余計な情報はいらないなと思います。しかしながら何かのきっかけで作品に興味を持って、その後でそういったことが書かれた本やキャプションを読むと勉強にはなります。例えば私の場合、自分が気になる作家や作品は海外のものでもほとんど日本美術に影響を受けていることが多かったので、20代の早いうちから日本美術をしようと決めたのは、西洋美術の中に日本の影響があるものだけを抽出して好むことに気付いたからで、自分はどこまでいっても日本的なものに惹かれるということからは逃げられないと観念したんです。子供の頃から興味を持った作品に関していうと、葛飾北斎の画角やクロッピングの仕方、ルネッサンス絵画における構図とシンボリズム。 ウィーン世紀末派の工芸と美術の融合展とか、ゴッホ、ロートレック、現代美術でもホックニーのプールの絵やホルストヤンセンの版画などことごとく後で知るのですが日本美術に影響を受けているものにだけ反応していることが結構あるんです。 自分の中にあるから、きっと心に強く引っかかってくるものがあるんだと思います。私は日本美術レーダーみたいなものをきっと積んでいて、日本なのかアジアなのか分からないけど、そういったものがはらんでいる思想や美的観念、物語やミソロジーとかとどこか根底で繋がっている西洋美術にものすごく反応することが分かっています。
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ーミヤケ先生にとって「色」とは何ですか?
作家は色々な才能の組み合わせでできあがるものだと思います。私の中で一番強いのは空間構成と色に対する感覚だと思います。空間に関しては、その場所に行くとその場所にある重力みたいなものや、積もり積もった声みたいなものが見えたり聞こえてくるような気がするタイプです。色に関しては、私自身が物事を理解したり思考したりするときに、物を思考する行為と色が根本的にどこか始まりが似ているから惹かれると思うんです。色は基本的に目の見える人には誰にでも見えているものじゃないですか。見えてはいますが、本当の意味で他の人と自分の見えている色を共有できているかは分からないと思います。色弱の人もいれば、 目の色によって見える色も違うし、年齢によっても小さい子供と大人では見えている色数や見え方も違いますし、年取ってくるとさらに色感も弱くなったり濁ったりする。同じ赤や青といってもなかなか共有できているか分からないものの一つかと。
そもそも色自体が光の反射なので、そこにはないけれど私たちのレセプターが受容して見せている幻想の一種だと思います。人間にとって必要な幻想、犬にとって必要な幻想、蝶にとって必要な幻想を光が見せてくれている訳で、ある意味必要のないものは見えない、見えずらいとも言えます。 例えば蝶とかは自分が蜜をとれる花だけが綺麗に見えたりはっきり見えるなど能力が特化していていますが、実は人間もそういうものなんじゃないかと疑っています。 必要なものが認識できるようになっている。それは人生全てにおいて言えることで、色だけじゃなさそうです。
だから、私の作品はいつも見るっていうことに疑問を投げかけていたり、 本当に見たり、知ったり、理解することの困難さを常に主題にしています。まさに色がそれを代表するもので、私にとって色と香りは一番自分が世界をどうみているのかを他人に理解してもらうための、対比として使う解りやすいものなんだと思います。
ーミヤケ先生にとって「香り」とは何ですか
色と香りは、言語化しにくいですが、好き嫌いに強く訴えてくるものだと思います。言語化できないということは、知性で理解するのが非常に難しく、なのに好き嫌いがあり、イメージが連想できるってことは、頭脳だけでなくて直接心や身体に訴えかけているんじゃないかなって思っています。先ほど言ったように、頭で考えるだけでは絶対足りない。腑に落ちない。 それがリンクしたときに本質的な感動がやってくるように思えます。
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ーミヤケ先生の作品は「白」主体のものが多いと思うのですが、それはなぜですか?
昔、資生堂で色に関する展示を私がしていたときに、美術や形色やグラフィックを専門にやっている沢山の人たちに「好きな色は何色ですか」「自分を色に例えるとなんだと思いますか」と質問する機会があったんですけど、
大体こういう仕事と心中している人は「どの色も好きで選べません」と言われることが多く、映画評論家が好きな映画を上げてくださいって言われたら「多すぎて答えられません」というのに似ていると思うんです。でも、私の場合はなぜかはっきり「白です」って昔から言えるんです。シンプルに白が好きというのもあるのですが、多分、光が色の根源であって、全ての色は白から出て、光の色は白に戻るっていう性質があるからです。始まりであって終わりでもある。白は自分にとってすごく特別な色なんです。それはもしかしたら他の人みたいに「色が選べない」というのと同じことを言っているのかもしれないですが、白が色の始まりであり終わりだっていう気がするのと同時に、白が持っているアイロニーというか皮肉な感じが好きなのです。白はどんな色にも受け入れることができる色で、どんな色がきても不協和音にならない。そういう白の主張のなさとか、なんでも受け入れて、他色がよく見える受容体としての懐の広さがある。それと同時に白は他の色を受け入れた瞬間に、白は白じゃなくなり、つまり自分は自分じゃなくなる。そういう意味では全ての色を拒絶しないと成り立たない色だとも言えます。 全てを受け入れるベースがあるのに、受け入れた瞬間に白が白でなくなるっていう瞬間やねじれが強烈に好きです。
Ⅱ 弱い強さ
ーミヤケ先生にとって「仕事」とは何でしょうか?
私にとって仕事と労働ははっきり分かれています。労働とは、自分のスキルや体、頭、時間を提供することによって、自分が生きていくためのお金を得ていくことが労働だと思います。仕事というのは、人にありがとうを言われてお金を払ってもらえて初めて仕事になるのだと思います。自分がしたいことや好きなことをして、相手が感謝してくれたり喜んだりしてくれ、かつお金を払ってくれるのが仕事なんじゃないのかなと思います。 同じことをやっていても「仕事行くのだるいな」とか「行きたくないけど家賃払わないといけないから」って言っている人もいれば、嬉々として自分が好きでしょうがないからやって、結果的に向こうからも感謝されて、得しかしていないと思っている人と大きく分けると2種類いると思うのです。作家だろうと農業やってようとどんな仕事をしていても、本人の考え方や精神性に対して外がそれを評価することで仕事になるのだと思います。
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ーミヤケ先生にとって「人間」とは何でしょうか?
私は基本性善説で、そこが私の強みでもあり弱みでもあると思います。人間は弱い生き物です。動物には牙があったり、早く走ることができたり、強いし、もっと言えばウイルスやミドリムシみたいなものは簡単に増えたり、シダや胞子系は、何年寝てても復活したりする、ノミとかは自分150倍飛べたりする。 能力や生命力の強さを考えたら、人間なんて目に何かが刺さっただけで死んじゃったり、ちょっと壊れただけで死んでしまう、人間は弱者なので、人間は楽な方に流れたり、同調圧力に飲み込まれ戦争やファシズムが、良くないことだと分かっていても同族殺しをしたり、自分の子供を戦争に送ってしまう。けど、またそういう弱さを克服しようとすることが人間の強さだと思っていて。それを克服することが楽しいし、目的になる生き物なのかなと思います。
弱いがゆえに与えられたり、与えたりする喜びや、達成感があるのかと。弱くて脆弱で能力が低いからこそ、目標や喜び、できることが無数にある生き物で、ウイルスとかなるべく単純な作りで、ある目的に特化してる生存は、強いがゆえに人間ほど喜びがあるのかは(実際聞いてみたわけでないですが)疑わしいなと思ってます。
鳥も「飛べて楽しい」って思っているかもしれないけど、飛ぶことに特化しているからこそ飛べないを克服する楽しみとか、克服するためにどうするのかとか、弱 いからこそそれをどう受け入れていくのかとか、人間はそういう意味で葛藤や矛盾が多いぶん楽しみも゙多いのかなと思う。 何か価値観がひっくり返る瞬間、オセロの白かったコマが何かをきっかけに黒から白に反転する時の楽しさを感じられるのが人間なんじゃないかと。弱さのない人は強くなれない気がするのも同じ理由です。強い人は強くなる必要ないから。弱いからこそ強くなりたいと思うのだし、必死で獲得しようとするわけだから多分、世の中の強く見える人は自分の弱さを受け入れて知っている人なのではないかと思います。
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ー「嫌う」とは何でしょうか?
嫌うは本能に根ざしたものやコンプレックスから来ることが多いいように思えます。自分が損なわれたり脅かされるって感じたときに嫌うという感覚になる。
私個人に関していうと、基本的にこっちから「嫌い」って思うことはまずないです。ただ、向こうから攻撃されたり負の感情を向けられたら「私も嫌いです」となると思います。向こうが負を投射したら鏡みたいに負で返すし、好意をぶつけてきたら好意で返す。子供みたいなところがあります、よく人に鏡や反射板みたいだと言われます。
強いて苦手なタイプをあげるとしたら嫌いなのは自分に嘘をつく人で、まあ自覚的に意識的に嘘をつく人はまあいいとして、無自覚に嘘をつく人が苦手です。自分のことが分かってなかったり、もしくは分かりたくない、嘘ついてたり誤魔化してるのを自他共に悟られたくなくて、潜在意識レベルで嘘をつく人が最も苦手です。そうなると会話が成り立ちにくいからです、抜本的に自分が分かってない、もしくは分かりたくない人と話しても砂上の楼閣で信頼関係を築くことは難しい様に思えます。なのであまり興味が持てないし、自分とは互換性のない種族なんだろうと感じる傾向があります。
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ー「愛」とは何でしょうか?
愛とは見ることです。見るっていうのは色んな意味で見るのだけど、対象物を見続けることが愛だと思います。いわゆる観察に近いのかもしれないけど、相手に興味を持って見続けること。途中で見捨てたり、どこかでやめるのは愛じゃない様に感じます。 諦めないこと、ともかくやめたら愛じゃないっていうのは何となく分かってる。さっき対象物って言ったのは、愛とは人に限定されて発動されるものではないからで、物や場所も入ってくると思います。
ー愛と対照的に語られることが多い「恋」についてはどうお考えでしょうか?
恋についての質問に答えづらいのは、私は恋という概念がよく分からない人だからです。恋をしている人を見ると、生殖したい、DNAを残したい欲求が高まっているのかなという感じで、根本的に私にはないものだと思っています。人を必要とするし理解もするし、相手の幸せも願うけど、いわゆる色恋の相手を不幸にしてでも手に留めておきたいという感覚が全然ない。生活するために「この人がいないとやっていけないから、どうにかして気に入られて保有しておこう」とか、そういう感覚が薄いので世でいう恋愛とか結婚とかもよくわからないところがあります。無論いろんなパターンがあって然りだし、受け入れられる社会になるといいとは思ってますが、何かステレオタイプ好まれる傾向があるなと。恋は分からないけど愛ならあるとは思っているのですが、生徒だろうと、植物でも場所でも、有り余るくらい愛はあると思うのですが……
ー愛のない人は怖いですか?
怖いかな……どうやって信頼したり愛したりして良いかわからないですから。けど会ってみたいとは思いますし、興味はあります。
ー男らしさ、女らしさについては、どういうものだと思いますか?
世でいう男らしさとか女らしさは、本来の性別にないものを補うためのメソロジーだと思います。性別が持ってる特有の機能や傾向っていうのは、生き物としての形がある限りあるとは思います。社会的刷り込みがある前から、女の子の方か遺伝性の゙病気に強いとか、 形として性差はある。でも、形の差によって生まれるものは、性差もありますがそれ以上に個人差も大きいと思います。だから、例えばセクシュアリティだけが人間を分けるものではないと思います。セクシュアリティ自体も無数に分かれているから。男女の中でも同性愛の人もいれば、バイセクシャルな人もいる。Aセクシュアルの人もいますし、もっと多岐に渡っています、また性別とは別の性癖や性衝動とかも個別にあるから性差より個体差の方が大きくないかと感じます。世の中、年齢とかジェンダーとか、雑な分割の仕方をするのをやめてほしい。もっと細分化しないとその人固有の性質とか分からないので、そういう分類は雑だなと思うので廃止してもいいのではとは思います。
ーミヤケ先生の小説を読んで、どこか女性の強さのようなものを描かれているように感じたのでお聞きしたんです。
多重構造に文化的や意味などのレイヤーを入れる作品を好んで作るので、左脳に偏った理知的もしくは男性的、中性的な作品のように捉えられることもあるのですが、物事の本質を捉えるのは、情報や知識と日常の感覚とか身体性からくる右脳的な感覚を後から理論化していくと、左脳的な世界に行き着く。一種円のようになっていて、似て非なる両極は似て見える傾向があると思うんです。それが世でいう女らしいとは別の、女性本来がもつ女性性で、それは強い方なのではないかと思います。強い、はっきりしている、理性的、知的だと一般的には男性っぽいとされますが、かつて女性が教育や職を持てなかった時代の刷り込みのような気もします。私は自分の女性性を否定的じゃなく受け入れているタイプだと思います。無論社会のシステム上様々なところで女性だから、不利になることも有利になることもあり、そこら辺は色々面倒くさいことになっているとは思うけど、でもそれが私の女性に生まれたっていう喜びを奪うものではないし。女性であることには何の不満もなく良かったと思っています。
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Ⅲ 買うことはサポートシステム
ー「お金」とは何でしょうか?
お金とは便利な道具だと思う。それ以上でもそれ以下でもないです。 お金に関してはそれくらいしか言えないのですが、ただお金(道具も)大きくなると振り回されたり影響は大きくなるなとは思います。取り扱い注意が必要な道具かなとは思います。
ーでは「アートを買う」とはどういうことですか?
私は美術品をかなり集める方です、それは自分が作家だからだと思います。作品を買うことで色々勉強になることが多く、自分が美術家をしていく上で色々教えられる点は多いです、それ以上に自分が作品を眺めている、囲まれて生活するのが好きだから、買うのだと思います。人でも、ほんとに好きだと思ったら付き合って一緒に住み出したりするのと同じで、好きとか口では行っていても一緒に住んでくれない人とかは、ほんとかなと思うのと同じで、本当に好きだったら手元に置いて愛でたいというごくシンプルな欲求だと思います。いいよねと褒めてくれるのはありがたいのですが、その作家の作品を買わないし、観にも来ない人を私は信じるのは難しいなと感じます、私は言葉と行動が伴って初めて事実になると思うから。評価するということは結局買うということかなと。口で言うのは自分の一部を提供することなく、できてしまうので、自分でもそこに真実味がないなって思うので、買うことで自分にも作家の才能にも真剣に向き合うことができる気がします、お金も場所も有限だから、買うことはある意味コミットメントなのではないかと。だから買うって言うことが本当の意味での評価だと思っているところはあります。作品を買ってくれる人はある意味評価してくれてるのかなと感じます。買ってくれることによって自分は生かされてる訳だから。だから自分も、この人がこれを続けていくことを後押ししたいと思ったら買うようにしてる。それが自分ができるサポートシステムだと思ってますし。単純に美術っていうの が好きだし、そばに置いて考えたり感じたりするために買うということもあるし。 学生の作品を買うことに関しては、「この人意外にこうなんだ」っていう感動が大きいかもしれないです。これがこの人の本質なのかなって思ったり、「頑張ってるから頑張ってね」という意味で買うこともあります。
ー人によっては作品を資産として買う人もいますよね。
私の家の空間はかなり限られているから、そんなことは私はできないですね。 集めた作品は確かにお金に困ったら売るかもしれないけど、お金に困らない限りは売らないだろうし。世の中には株や金より眺めてられてかつ資産として上がる可能性があるからアートを買うというのは、分からなくないのですが、ただ上がる可能性のあるものをさして好きでもないのに買って、箱に入れたまままた次売る時まで保管して見もしないのは作品もかわいそうに思います。誰が買ったから買うとかいう傾向もファッション?女子高生?なの?と思います。お金を生み出すものが好きという価値観もありますので否定はできないですが、お金を産む以外の何か別のものを産む力の方に私は魅かれます。
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Ⅳ 確固たるもの
ー「成功」とは何でしょうか?
成功とは幸福です。幸せじゃなかったら、何があっても、何を持っていても意味がないように思うから。幸せだって感じられることが成功だと思います。「幸せですか?と聞かれれて」私自身が「そうですね。幸せな人です」って答えられることが自分にとって成功だと思っています。お金と一緒で、成功も単純なものだと思っています。
ー「幸福」とは何でしょうか?
成功とは幸福のことだけど、幸福は成功じゃないと思う。幸福については正直言語化できていません。多分私にとって神と幸福は非常に似た存在で、なんだかよく分からないものだけど確固たる「ある」って感じられるものの様な気がします。 自分を超えた何かなんだと思う。自分の中にある自分を超えた何かで、私自身体感的に神様はいるなと感じています。けど、神が何かと聞かれたら答えられない。自分の中にいるのか外にいるのかもはっきりしないけど、確実にあるって認識できるもの、それが神であり幸福です。
ーそれは佇んでいるもの?信じているもの?
佇んでいるというよりかは、その中にいるのか自分の中にいるのか言語化できない。分からないけれども、神様は確かにいると思う感覚と同じように、幸福という感覚がリアリティを持ってそこにあるのだが゙、それを証明しようとか言語化しようと思ったら難しいです。信じてるからあるというより、それは確固たる存在で。 私が信じようと信じまいとそこに安定してあるんじゃないかっていう。 広く拡散してどこにでもある。ミクロな世界にもマクロな世界にもみっしりある。それを受け取れるか、感じることができるか、発見できるかどうかによって、神様はいると感じる人と神様はいないと感じる人がいる気がします。幸福も同じように、それを感じ取ることができる人と感じ取れない人がいることは分かっています。けど、言語化はできないし正体は分かりません。幸福に一番近い言葉が神だと思っています。
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Ⅴ 銀鼠の声
ー「死」とは何でしょうか?
死は幸福の一つですね。 幸福の1つの形でもあると思います。そして死が終わりだとしたらきっと何か知らないもの始まりでもあると思ってます。
ー死に対して怖いという感情は?
全くないです。すごく経験したくて仕方がないもの。ものすごく知らない世界だし、これ以上に自分が経験できる新しいことはないと思う。歳を取ると新しい経験は減ってしまって楽しくなくなる傾向があるのだけど、「私にはまだ死があるからね」と思うと生きていくモチベーションを持ち続けていける。私にとって死はポジティブなものです。最後に自分が経験し得る、誰もが経験し得るものだから、私だけそれを経験できないかもっていう焦りもないですし、待ち遠しいものです。
ーコントロールがきかないものだと思いますが、どういう死に方をしたいとかありますか?
せっかくの経験なのにフルに楽しめないのは嫌ですよね。無論痛いのとか怖い思いするのも嫌ですが、ボケてしまって死を認識できないのも嫌です。死ぬときに人に刺されて死ぬパターンは、怖いとか痛いとか「え、この人にこんな恨まれていたんだ」と思う衝撃の方が強すぎて、死ぬことに意識がいかないと思う。「そういうことか、面白かった」と死と今までの人生を静かに受容させてほしいです。 突然階段から落ちて突然死ぬとか、食べ物にあたって苦しみながら死ぬとか出ないと嬉しいなと、ちゃんと向き合って享受したい。
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ー「普通」とは何でしょうか?
何かの虚構の上に成り立っている概念だから、普通というもの自体が存在しえないのではないかと。そもそも誰の平均値を取って普通といっているのか分からない。誰の平均値なのか分母が何なのかも分からないのなら、すでに概念として怪しいと思う。誰かに「普通の分母は世界中の人間です」と言われたとしても、その平均はどうやって取るのかという問題もある。メソロジーとしても疑わしい、虚だと思うから、普通は誰かが自分の理論を武装するときに使う架空定義という感じがします。
ー普通の日常というのも存在しない?
普通の日常はないと思います。毎日違う日常があるだけでそれを普通とは思わない。『colors』の銀鼠色の章で、多分私の感じる普通に対する考えを描いた気がするんです。普通という概念は存在し得ない虚構で、日常というのはその反対にある固有の体験の連続で、繰り返しに見えていても実は刻々と移ろうものだと思います。
assistant:中村心音
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