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みんな怖いだけなんだよ『風の谷のナウシカ』
みんな怖がっている。それが当たり前過ぎてみんな考えることを止めてしまっているだけ。この物語はたぶん、たったそれだけの物語。そしてこれから綴る文字はただの感想文であり観測日誌。
あの世界で彼女だけが、世界の秘密にたどり着いている。それは確かめようのない、自分で集めた情報だけを元にした、願いともいうべき理屈。それを支持している限り、たった独りで共存の道を探していくしかないという、どっちの側にも入れない孤独。
それを分かろうともしてくれない世界に、それを伝えられない自分に、落胆して逃げ出したくて、一人きりになれる居場所に隠れてしまった。でもきっと彼女は見つけ出してほしかったんだろう。気づいてほしかったんだろう。一緒に、その世界の可能性に目を向けてほしかったんだろう。
誰よりも一番怖くて怯えていたのは彼女だ。だからこそ、人に懐かない動物にも侵略国の姫にも、そしてあの虫にも、怖くて怯えているだけだと、そう感じ取ることが出来たんだと思う。分かるよって、それでいいんだよって。そう言って抱きしめることだって出来たんだろう。でも、それは本当は自分自身が一番されたいことのはずなのに。
彼女は優しかったんだろうか。強かったんだろうか。そんな風には見えなかった。誰よりも怖がりで、そして誰かが傷つくことにひどく怯えていた。どうすれば良いのかは分かっていたのに出来なかった。知らなくて出来ないよりも、知っていて出来ないことのほうが辛いよね。そんな思いを抱えたまま風を切っていたんじゃないかな。目の前を流れる悲しみに気付かないフリはできなくて、目から溢れて後ろに流れる悲しみに気付く人は誰も居なくて。
彼女の幼少期の描写から、私達(視聴者)はその心情を思い描いて彼女の心にそっと寄り添える(気になれる)。だからこう思うのか、ここでこう行動するのか、そこで涙するのか、と。それを確かめることは出来ないけれど。
そう、物語の世界に手を差し伸べることはできない。出来ることは眺めることばかり。彼女には、写し出された映像しかない。写し出されたもので物語は前に進む、当たり前のことだ。彼女は物語のキャラクターの一人で、作り手はそれを動かさないことには話が進まないのだから。
でも、そうじゃなくて。もし、あの世界が現実だっとして、あるいは似たような状況に追い込まれている彼女に似た人がいたとしたら、きっと彼女も彼女に似た人も、自身の意志で同じ行動をしているのだと、私は思う。彼女が――それはひどく不器用に映るけど――前に進めることこそが、大切なことのように思えるし、それをしていくのだと思う。この点に関しては彼女は間違いなく強い。(そして、それに触れられることが私は嬉しいのだ。)
世界の方がおかしくて彼女自身の正しさを裏付けるような、浄化されるもののない浄化装置が働いている一人っきりの部屋で、浄化されようのない思いを抱えた彼女は、日々何を感じていたんだろう。そして、その最も信じていたい可能性を手放すことを決めたあの時に、何を思っていたのだろう。
もし私があの世界の登場人物で、彼女を目の当たりにしたらどう思うだろうか。理解しなくてはいけないとは思っていない。出来るとも思っていない。でも、あの秘密の部屋で一人蹲るのを見つけてしまったら、手を伸ばしてしまう気持ちを抑えられないだろう。これは優しさではなくて、もしかしたら“同情”という言葉のほうが近いのかもしれない(私はこの言葉は好きではないが、伝わりやすさを優先しよう)。私なら何か出来ることがあるかも知れないなんて自惚れてはいないけど、それを誰にも伝えずに一人抱えていく強さもないから、ほんの僅かでも彼女の抱える重さを和らげられるようにって、ぎこちなく……
それは、何の解決にもならない私のエゴでしかない。理屈が入り込む余地のない、堂々巡りの感情だ。
そして、ラストシーン。
虫も人も、そっと彼女に手を伸ばした。
それぞれの手から彼女の重さを少しずつ奪い去っているように私には見えた。
金色の草原を歩く彼女。
その頬を伝うものはもうない。
何年ぶりに観たか分からない。確実に言えることは、以前観たときはこんな風には感じていなかったということ。人や作品に触れることは時に痛みも伴うけれど、この瞬間に私は価値を感じる。
この作品をこんな風に感じるのは一般的ではないのかもしれない。でも、物語を、あるいは彼女自体をどう解釈するか、そしてそれに何を思うかとか、涙を流すのかどうかも、全て私の自由であり私の責任だ。そして、涙の色について語るのは、私が前に進むためなのだ。
その色に、たとえ僅かでも誰かの心が動くのならばそれだけで私は十分だ。