読書会より―『一九八四年』③洗脳の無限ループとしての「二重思考」―
『一九八四年』だけで3回目…。だが、「二重思考」に触れないわけにいかない。そして、読書会メンバーのマガジンにこの面倒な長文をダラダラと3回…これでいいかは…いつかどこかで考えることにして、二重思考へ。
二重思考とは前回紹介した党のスローガンとも関係する。もう一度記しておこう。
「過去をコントロールするものは未来をコントロールし、現在をコントロールするものは過去をコントロールする」
このスローガンからすれば、過去は「改変されうる」ものである。しかし、党は過去を改変することなど「ない」のだ。少なくとも物語の世界においては。
どういうことか。ちょっと引用しよう。
そして、「二重思考」の性質は以下のように説明される。少々長いが引用しよう。
このロジックに従えば、実在の人物を物理的・記録的に抹消するだけでなく、記憶からも事実上、抹消できる。実態は徐々に悪化する経済であっても、「史上最高の好景気」にできる。当然、人々が年々窮乏状態に陥りつつあっても、昔よりも改善されたことにできる。なぜなら、「党がコントロールした過去」を、人々が自らの記憶に頼らず、二重思考の駆使によって「正しい過去として無条件に受け入れる」からだ。
とはいえ、必要に応じてそれを思い出せるようにしなければならない。幾重にも重ねられた二重思考の上に成り立つ社会…、なんとも面倒な社会なことで。
さて、この二重思考であるが、私たちも使うことがあるのではないだろうか。個人的なレベルでいえば、さすがに、小説の世界に出てくるような極端かつ複雑な形で使うことはないだろう。実際に使っている局面があるとするならば、相当重症だ。敢えて言うなら、思い出したくない人物の存在を、その人との関係すら記憶から抹消する、くらいであろう。「ん?そんな人いたの?知らないけど」といいながらも、偶然再会したときに「久しぶり」と、いうように。それでもレアだ。
なお、二重思考について、認知的不協和であるとする言論もあるようだが、ちょっと違うように感じる。認知的不協和は、例えば、「喫煙=健康に悪い」という図式を理解しつつも、「30年吸っていても影響出ていないから大丈夫」「煙草を吸っている人にも長寿の人がいる」という風にして、健康に悪いという図式から目を背けることにある。そこにはあくまでも前提としての「喫煙=健康に悪い」という図式は残っている。
対して、二重思考の場合は、「喫煙と健康との関係性はない」という風にはっきりと認識を変える。つまり、認知的不協和における「矛盾」、ここでは「喫煙=健康に悪い」という図式そのものが忘却の彼方に消え去るのである。それでいて、必要な時だけ、例えば年に1回の健康診断の時だけ、健康に悪いという認識が呼び戻される。そういう意味では認知的不協和の極致とも言うべきかもしれない。
一般社会においては、カルト宗教への全面的な依存や、Qアノンのような陰謀論を信奉するケースの中には、これに該当するケースが含まれるであろう。当然、そこには「疑い」があってはならない。彼らの言うことを全面的に信じ切るのだ。ある意味認知的不協和よりもタチが悪い。
また、一般的な意味での「洗脳」とも若干異なるように思う。洗脳は特定の考えについて、正しいかどうかに関係なく、「完全に正しい」と信じ切っているが、二重思考の場合、その時々の自分、あるいは体制・環境にとって都合よくなるように、あらゆる情報の認識を切り替える(繰り返すが、切り替えた事実は忘却の彼方へ消え去る)。その意味では都合よい方向に瞬時に洗脳しなおす能力が二重思考と言っても良いのかもしれない。『一九八四年』に登場する党員の人たちは、実は相当に器用なのではないだろうか…。少なくとも、こんな芸当、私には無理だ。
そもそも、この手の問題は自ら様々な情報に触れ、様々な場所へ行き、様々な経験を積む中で、自らの考えを築き上げていけば解決できるではないか、と言うことはできる。しかし、個々人の特性や置かれている状況によって、その実行可能性は大きく異なる。必ずしも容易なことではない。『一九八四年』の世界においては、自分が積極的に様々な経験をしたいと思っても、その選択肢はないに等しい。また、仮にそう思い、行動に移したら、いつ思考警察に連行されて愛情省という監獄に放り込まれる(おそらく愛情省内での再教育&処刑のパターンにはまる)のだ。二重思考回避策を思いついても、それ自体が犯罪行為(といっても、法律上の犯罪ではない)になる。二重思考回避策は命と引き換えに一時的に得られるかもしれないレベルでしかない。ジョージ・オーウェルの想像力おそるべし・・・(どこまで回避策を張り巡らせているのだろう)。
そして、一度二重思考に到達してしまえば、おそらくそこからの脱出は自分自身だけでは困難であるし、周囲の人の助けがあっても脱出できるとは限らない。文字通りの洗脳(しかも記憶自体が都合よく変化する)、その怖さが二重思考には含まれるように感じるのだ。
結局3回、文字数にして7,000ほどに達してしまった。何度も推敲を重ねれば、もっと簡潔にまとめられるかもしれないが、そんな気にはなれない。さすがに書きすぎた。そして、何が言いたいかも散らばりまくった文章になったのは自覚している。しかし、『一九八四年』はそれだけ様々な点で考えさせられるのだ。
『一九八四年』はおそらく単なるディストピア小説ではない。むしろ、現実に存在する1つ1つの問題と小説の世界とを比較することに意義があるのだろう。よりよい社会の在り方、よりよい人間関係の在り方、よりよい自分の在り方を模索すること、その際の検討材料として、絶対的に避けたいワーストケース、それが『一九八四年』なのかもしれない。
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