欲しい?いらない?―宮部みゆき・吉田尚令『悪い本』―
哲学カフェで紹介された本をいくつか買って読んでみた。その感想をまとめておこう。まずは『悪い本』から。
あらゆる「悪い」ことを知っているという本がある。その本は自己紹介の後、主人公(?)の女の子へ語りかける。
仮にいらないと思っても、誰かを嫌いになる時、誰かにいなくなってほしい時があるだろうという。その時、悪いことを教えてくれるというのがこの悪い本である。
そして、悪い本を読み進めていくと、「この よのなかで いちばん 悪いことを」教えてくれるという。それを教わり、いちばん悪くなると、「なんでも できるようになる」とさえ囁くのだ。
そうなると、嫌いな物事を排除するようなことを「じょうずに じょうずに」やってのけられるようになる、という。何とも恐ろしいことを唆してくることで。
悪い本が女の子に唆す光景は、創世記におけるイブと蛇のやり取りのように見える。リンゴを手に取らせ、食べさせようとする蛇がこの本では「悪い本」の立場に見えるのだ。同様に女の子、そして読者はイブであろう。パンドラの箱、玉手箱と置き換えてもよいかもしれない。あれも開けてはならない代物だ。
しかし、なぜだろう?ああいうものほど、その禁忌を破りたくなるのだ。
開けてはならないパンドラの箱のような本。だからこそ、気になる。手に取りたくなる。手に取り、実践していくと、だんだんと“上手に”悪いことができるようになっていく。そして、いずれは「なんでも できるようになる」のだ。ある意味では、素晴らしい指南本である。もっとも、そのしっぺ返しは受けることになる…、いや、受けないかもしれない。「じょうずに」悪いことができるようになるのだから。
作中では「悪いこと」の例はかなりぼんやりしている。しかし、ぼんやりしているが故に、「悪いこと」のイメージがどんどん膨らんでいく。その膨らませたイメージと実際の自分を対比させたとき、果たして自分にとって「悪い本」を不要であるといえるだろうか?そもそも、すでに「悪い本」を手に取っている読んでいるのと同じなのではないだろうか?そのような問いを自らにかけさせる。
今年に入って絵本を久々に読んだ。はじめは哲学カフェでの『もこ もこもこ』。次に『ファーブル昆虫記の虫たち(5)』。そして、『悪い本』。今まで絵本を読んでもあまり面白い発見はなさそうに思っていたが、案外そうではなかった。
子どもでも簡単に読めるだけが絵本ではない。簡単な文章と絵の組み合わせが、想像力を掻き立てさせる。こういう本を読むのも悪くない。
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