■【より道‐111】戦乱の世に至るまでの日本史_時代を超えた因果応報_細川政元という男
色んな思惑はあったと思いますが、室町将軍・足利氏のお家騒動、「応仁の乱」が終結すると、幕府の権威が大きく衰退していったそうです。
権威といわれても、ピンときませんが、11年ものあいだ戦が続いていたので、足利一門の兵力が衰退したことは間違いないでしょうし、「応仁の乱」で駆り出された足軽農民たちが、武器を持ち一揆を起こしたり、神仏社や公家の領地を横領しだしたりーー。
最前線の国人が農民たちをまとめあげて、幕府のいうことをきかなくなっていったということでしょうか。
そんな、下剋上の風潮が全国的に広がっていっていく先駆けが、佐々木一族が長年抱えていた六角氏と京極氏の主権争いが要因だったとは思いもよりませんでした。
とにかく、歴史に埋もれている、戦国期までの日本史です。じぶんの命にどのようにつながってきたのか知るために、今回は、「応仁の乱」後の出来事を記してみたいと思います。
■ 戦後
「応仁の乱」のあと、幕府の権威は大きく衰退してしまいました。それは、守護大名たちが自らの荘園を守ることができず、実際に農地を治めている国人たちが、じぶんたちのチカラで土地を守るようになっていったからです。
その時世をよんだ六角高頼は、ここぞとばかりに下克上を企てたといいます。下克上といっても、六角氏より上の立場というと、三管領や四職でしょうか。
まさか、将軍の座まで狙っていたわけではないとは思いますが、おそらくではありますが、室町時代初期から、佐々木一族の主権を京極氏に奪われていたので、宗家の六角氏が「京極騒乱」で衰退していく京極氏に代わり、四職になろうと考えたのではないですかね。
六角高頼は、近江国の地盤を強化するため、公家や寺社、奉公衆の領地、もっというと、日野富子が確立した関所の通行料を横領して「応仁の乱」などで活躍した配下の国人衆たちに分け与えるようになったそうです。
すると、九代将軍・足利義尚が、幕府の権威回復のために、六角高頼討伐の命を下し、諸大名や奉公衆ら約2万もの軍勢を率いて出陣したそうです。
大軍勢が近江国を目指して進軍してくるわけですから、六角高頼は城を捨てて逃走しますが、各所でゲリラ戦を展開して長い年月、抵抗し続けたそうです。
■ 続・足利騒乱
六角高頼が城を捨て、ゲリラ作戦で粘りに粘っていると、今度は幕府軍の武将や奉公衆が、守護大名のいない間に所領を横領しだしといいます。ミイラ取りがミイラになったということですかね。
そんな統制の効かない軍に嫌気がさしたのか、両親の小言に耐えきれなかったのか、足利義尚が出陣中に23歳の若さで亡くなったそうです。死因は、酒の飲みすぎといわれています。
足利義尚には、嫡男がいなかったため、「応仁の乱」で争った、足利義視の子である、足利義稙を前将軍・足利義政の養子にして、10代将軍に就任させました。
しかし、足利義稙は、「応仁の乱」で室町幕府と対立していた立場ですから、管領・細川勝元の息子、細川政元と大いに対立するわけです。
どのようなことが起きたかというと、足利義稙は、細川政元の反対を押し切って、六角高頼の討伐を再開します。また、畠山氏のお家騒動にも介入したことにより、「応仁の乱」のような、無益な戦が再び起こりそうになったそうです。
すると、足利義稙が出陣している間に、京都に残っていた細川政元と日野富子らが結託して、足利義稙の従弟、足利義澄を擁立すると、十一代将軍にしてしまいました。1493年(明応二年)の出来事、「明応の政変」です。
足利義稙を支持していたものは殺害され、元管領の畠山政長は自害に追い込まれました。そして、足利義稙は捕まり、京都に幽閉されたそうです。
この「明応の政変」が戦国期の幕開けと言われています。
■ 細川政元
「明応の政変」で、足利義澄が、十一代将軍になりましたが、実際は、傀儡政権のようでして、管領の細川政元が「半将軍」と呼ばれるほど、幕政を牛耳り権力を得たそうです。この政権を細川宗家の政権、「京兆《けいちょう》専制」と呼ぶそうです。
細川政元は、足利義稙と通じていた、畠山政長を自害に追込み、一族を衰退させて、六角高頼を近江国守護に任命することで、佐々木一族のお家騒動、「京極騒乱」に終止符を打ちます。
そんな、細川政元ですが、江戸時代には「戦国三大愚人」の一人に数えられるほど奇行が多かったことでも知られていたそうです。
具体的には、一切女性を寄せつけない「生粋の男色家」であったり、修験道という、山にこもって悟りを開く修行に没頭したり、天狗になりたくて空を飛ぶ練習をしたり、魔法の練習をしたりしていたそうです。
長年童貞の男性が、魔法使いになれるというファンタジーは、細川政元が所以だったんですね。
そんな、細川政元にも、誤算がふたつありました。ひとつめは、十代将軍・足利義稙を周防国の大内義興のもとへ逃がしてしまったこと。
そして、もうひとつは、細川氏の宗家、京兆家の嫡男にも関わらず、「生粋の男色家」だったため、妻を娶らず、子孫を残さなかったことです。
そのため、細川政元は、3人の養子を迎えますが、このことが後に、細川氏の大きなお家騒動を起こすことになり、やがて、自らも暗殺されてしまうのです。
第六代将軍・足利義教が、毀してしまった室町幕府の統治体制は、混乱に混乱を重ねる世になってしまいました。この後の日本史はどのような道を辿り、織田信長の桶狭間の戦いにつながっていくのでしょうか。
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