■【より道‐115】「尼子の落人」と家訓が残るほどの物語_尼子清定という男
わたしは、小さいころから父に、ご先祖さまは「尼子の落人」だということを言われ続けてきました。父の故郷、岡山県新見市高瀬の家屋跡にある旧墓地には、「尼子の落人」のお墓と伝わるものも存在しています。
ただ、そんなことを言われても、歴史のことはよくわからないですし、しかも、織田でも徳川でも武田や上杉でもない尼子と言われてもよくわかりません。正直、昔は、仏門の尼さんのことだと思ったりもしていましたし、素潜り漁をする海さんのことだと思ったりもしていました。
しかし、歳を重ねたいま、ファミリーヒストリーを通じて日本史を学ぶと、尼子氏は、平安時代末期から続く、佐々木一族の末裔だということがわかってきました。
そして、いよいよ、尼子氏がどのような運命を辿ったのか、ご先祖さまは「尼子の落人」と言われながらも、長谷部の名を称すじぶんの命にどのようにつながったのか、戦国期の動向について記していきたいと思います。
■ 出雲国・守護代
尼子氏は出雲国の「月山富田城」を中心に所領していた一族ですが、もともとは、近江国にある尼子郷に住んでいた、佐々木道誉の孫、佐々木高久が尼子氏を称したことがはじまりです。
佐々木道誉という人物は、鎌倉討幕や南北朝の動乱で活躍した人物でして、室町幕府初代将軍・足利尊氏の朋友になります。当時は、日本の影のフィクサーと呼ばれるほど影響力を持っていました。
そんな、佐々木道誉の孫、佐々木高久あらため、尼子高久が、なぜ、近江国ではなく、出雲国の大名となったかというと、それは、1391年(明徳二年)におきた「明徳の乱」がキッカケです。
当時、尼子高久の兄、京極高詮が幕府軍として山名氏との戦に参陣して、その武功により出雲国を与えられました。京極高詮は、近江国守護職や幕府での役職があったので、弟の尼子高久を出雲国の守護代にしたということですね。
■ 出雲国の勢力争い
もともと、出雲国は、平安時代の末期に源平合戦で活躍した、佐々木四兄弟の腹違いの弟、五男の佐々木義清が、1221年(承久三年)「承久の乱」で活躍をしたことで出雲・隠岐の守護となりました。
その子孫は塩冶氏と名乗るようになるのですが、塩冶氏は、1333年(元弘三年)に起きた「元弘の乱」で、足利尊氏や佐々木道誉に呼応して、鎌倉幕府討幕の一役を担いました。
その後起きた「建武の乱」では、後醍醐天皇率いる南朝側に属していましたが、やがて、北朝の足利尊氏に寝返るようになります。しかし、当時の当主、塩冶高貞の妻が、後醍醐天皇の親族だったことから、南朝側に通じていると謀反を疑われ、隣国にある伯耆国の守護、山名時氏に攻め込まれ自害してしまいました。
この話しは、『仮名手本忠臣蔵』の歌舞伎演目で現代にも伝わり続けています。
その後、出雲国は山名氏の領地となりますが、足利尊氏と足利直義による日本最大の兄弟ケンカ「観応の擾乱」が起きると、山名時氏は、弟の足利直義に属し、南朝を支持するようになりました。
すると、南北に朝廷があるわけですから、南朝の出雲守護は山名氏、北朝の出雲守護は、佐々木氏と、かなりこじれた状況となり、出雲国を巡って一進一退の勢力争いが続くことになります。
ときがたち、二代将軍・足利義詮の時代になると、南北朝問題を利用しながら勢力争いをしていた足利一門が和睦することになりました。南朝を支援していた山名氏も、室町幕府のある北朝に属することになりす。
そのとき、山名氏は、北朝に属する条件として多くの所領を望み、全国66ヵ国のうち、出雲国を含む11ヵ国を所領する大大名。六分の一殿と呼ばれるような存在にまで出世しました。
しかし、勢力を増す山名一族に危機感を持つ人物が現れます。それが、三代将軍・足利義満です。足利義満は、1391年(明徳二年)山名氏のお家騒動を謀り、幕府に反旗を翻す「明徳の乱」が勃発しました。そして、あえなく惨敗した山名氏は多くの所領をとりあげられて、出雲国は佐々木一族、京極氏の領地として安堵されることになりました。
■ 応仁の乱・京極家
1467年(応仁元年)に足利将軍のお家騒動、「応仁の乱」が起きると、その戦いの舞台は京にとどまらず、地方にも波及していきました。当時の出雲国の守護は、京極持清、守護代は尼子清定です。
京極持清は、室町幕府の侍所で管領・細川勝元の親族関係ということもあり東軍に属しました。そして、これまた当時の問題だった、同族のお家騒動、「六角騒乱」を治めるべく、西軍・六角高頼と近江国の覇権を争い、観音寺城を陥落させて追い出すと、近江国全土を制覇して守護となりました。
しかし、混乱は続くものです。京極持清が翌年命を落とすと、京極家でも家督争い、お家騒動が起きてしまいます。その争いは、京極持清の孫、京極高清と、京極持清の息子で三男の京極政経の争いです。
京極高清は、六角高頼を頼り西軍に属すと、観音寺城を奪還。京極政経は、京極家当主として細川勝元が指揮する東軍に属して、引き続き近江国の主権を争うことになりました。
■ 応仁の乱・尼子家
東軍大将の細川勝元と西軍大将の山名宗全は、「応仁の乱」がはじまると、京中央だけの戦いだけでなく、それぞれの分国へ目を光らせました。それぞれの後方部隊のチカラを削ぐためです。
それは、出雲国も他でもありませんでした。1468年(応仁二年)に、出雲国の最西端、中海に面する安来庄に十神山城主の松田氏が、西軍の山名氏と通じて13キロほど離れた、月山富田城にいる尼子清定を目指して挙兵したのです。
松田氏は、日御碕氏の支流で「承久の乱」のとき鎌倉幕府に味方したことで、安来庄の地頭として所領を統治していました。しかし、そこには、美保関という、海上交通の要衝がありまして、当時は、朝鮮半島等との交易の拠点として「たたら製鉄」による鉄の輸出港として繁栄していました。
つまり、金の成る木がそこにあるわけですから、所領問題で松田氏と尼子氏は以前より揉めており、ついには、出雲国守護の京極持清までもが、介入してきたので、松田氏は、「応仁の乱」に乗じて尼子氏を討ち取ろうと兵をあげたのでした。
しかし、こういうのは、やはり、先に武力に頼った方が負けですね。出雲国を統治している尼子定清は、当然のごとく迎え打つことになります。そして、逆に、十神山城に籠る松田備前守や山名勢を打ち破ることに成功しました。
この戦いの勝利に、出雲国守護の京極持清は、大いに喜び、松田氏の所領や役職を守護代の尼子清定に与えることになりました。この出来事こそが、尼子氏が発展する基礎となるのです。
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