■【より道‐92】戦乱の世に至るまでの日本史_義満の謀事「土岐康行の乱」
1379年(康暦元年)「康暦の政変」で、育ての親である細川頼之を失った、足利義満ですが、ここから、自らの政治的手腕を発揮しだします。なにをしたかというと、まずは、「奉公衆」という、将軍直下の軍を整備しました。
そして、「執権(管領)」の権限を分散させます。もともと、鎌倉時代に征夷大将軍を補佐する役目として、「執権」という職がありました。執権とは征夷大将軍を補佐する役目なのですが、実際の政治は執権が取り仕切るため、権力構造が逆転することが起こることがありました。鎌倉後期の北条氏と源氏の関係が良い例ですね。
「執権」の役目はその後「管領」と名を変えましたが、権限をそのままにすると、国を「管領」にのっとられてしまう可能性があります。そこで、足利義満は、「管領」の権限のひとつ、武士を取りまとめ、軍事を行う権限「侍所」の職を征夷大将軍直下の役職にすることにしました。
そして、その職に就けるのは「家格」が重要視され、「管領」は、細川氏、斯波氏、畠山氏の家から選出し、「侍所」は、京極氏、山名氏、赤松氏、一色氏から選出することにしました。三管領四職ですね。
つまり、征夷大将軍である足利義満が直接管轄する重要な役職として、政治をつかさどる「管領」、武士をとりまとめる「侍所」、将軍直属の軍「奉公衆」という体制が整備されたということになります。
■「土岐康行の乱」(土岐氏)
南北朝時代、足利尊氏を支えて各国で戦いぬき、幕府の要人として美濃国(現:岐阜)尾張国(現:愛知)伊勢国(現:三重)の守護大名であった、土岐頼康(よりやす)が亡くなると、甥で養子となっていた土岐康行(やすゆき)が惣領を継ぎました。しかし「康暦の政変」で土岐氏に対して遺恨が残っている足利義満がここぞとばかりに介入します。
その方法は、土岐康行(やすゆき)の弟、土岐満貞(みつさだ)に密かに接触して尾張の守護職を与え、さらには土岐氏の家督を継がせようと画策することで土岐康行(やすゆき)を挑発したのです。
土岐満貞(みつさだ)は野心家で尾張守護職を欲して以前から度々足利義満へ土岐康行(やすゆき)の、ありもしない出来事を讒言していたといいますので、足利義満はこの兄弟の不和を利用して土岐氏の分裂を謀ったということですね。
これに怒った、土岐康行(やすゆき)は、土岐満貞(みつさだ)と対立し、土岐氏の内訌に発展。一度は、弟の土岐満貞(みつさだ)が敗れて京都へ敗走しましたが、足利義満に土岐康行(やすゆき)の謀叛を訴えると、足利義満はこの機を逃さず、土岐康行(やすゆき)の討伐を命じ、土岐康行(やすゆき)は没落しました。
「土岐康之(やすゆき)の乱」は、将軍専制権力の確立を目指す足利義満が、有力守護の弱体化を試みた謀事だたといわれていますが、先代の土岐頼康(よりやす)が宿老として幕政に参加していた頃、「管領」細川頼之と対立して勝手に本国へ帰国し、足利義満が激怒したという一件があったといいます。
当時は、土岐頼康(よりやす)が謝罪して矛をおさめたそうですが、そこから、育ての親である細川頼之を追放する「康暦の政変」に発展してくわけですから、足利義満は、土岐氏を快く思っていなかったと思います。
光厳上皇に弓を引いた、土岐頼遠(よりとお)。足利義満に謀られた土岐康之(やすゆき)。斉藤道三から下剋上を果たされた土岐頼芸(よりあき)。「元弘の乱」や「建武の乱」「観応の擾乱」で足利氏のために血を流してきた一族は、奇しくも足利氏によって衰退することになりました。
これも、時代を超えた因果応報かもしれません。
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