■【より道‐88】戦乱の世に至るまでの日本史_室町幕府の外様大名_大内氏
我が家の「家系図」に長谷部左衛門尉元秀というご先祖様の隣に以下のようなことが、書かれています。
また萩藩閥閲録 には、長谷部丹後守宗連は「応仁の乱」で山名持豊に属し、その子種連は1511年(永正8年)船岡山で討死したという記録もあるようです。
そこで、「船岡山合戦」を調べてみると、1511年(永正8年)に将軍・足利義稙を擁立する、細川高国・大内義興と前将軍足利義澄を擁立する細川澄元との間でおきた家督をめぐる戦いだと記載ありました。
そんなことから、今回は、大内氏について調べてみることにしました。
■周防大内氏
大内氏のルーツは、は西暦577年ごろに活躍した百済(現:韓国)の聖王の後裔だと、大内氏自身が称していたようですが、実際のところはわからないそうです。
ただ、起源は、平安時代末期に周防国(現:山口県)の実力者であった、多々良盛房が、大内と名乗ったことから始まるそうです。
1333年(元弘三年)「建武の新政」がはじまると、大内氏は周防守護職を任せられ、南北朝の動乱では、南朝側に属していたそうですが、1363年(貞治二年)足利義詮の時代に、大内弘世(ひろよ)が周防と長門の二国の守護となることを条件に北朝・室町幕府に帰順しました。
これは、山名氏と同様、天下分け目の兄弟ケンカで、足利尊氏の弟、足利直義に共に従属していた、斯波氏が二代将軍・足利義詮の管領になったことが、大きな理由だったのではないかと思います。
■大内氏の繁栄と応永の乱
大内義弘(よしひろ)は、1370年(建徳元年)ごろから、三代将軍・足利義満の時代に九州平定を任された、今川貞世に従軍して地位を確立していきますが、山名氏が足利義満に対し決起した1391年(明徳二年)の「明徳の乱」でも幕府軍として活躍して、六か国を領する守護大名となりました。
しかし、ここから、大内氏に七難八苦が訪れます。あるとき、足利義満が、大内義弘(よしひろ)に、金閣寺を創るから支援してほしいと、依頼するのですが、大内義弘(よしひろ)は、「武士とは、戦いで忠義を示すと」断ったそうです。
また、大内義弘(よしひろ)は、明との貿易や、朝鮮との国交をして栄えていましたので、その利権がほしい足利義満にとって、まさに目の上のたんこぶです。
そのころ、今川貞世と共に、九州の大宰府から南朝の兼良親王を追い出した大内義弘(よしひろ)は、南に逃げた南朝軍に追討軍を送るため、九州の武将たちを招集しますが、九州を任されていた少弐氏が軍をあげません。
そこで、足利義満は少弐氏討伐を大内義弘(よしひろ)に命じたのですが、そのとき、足利義満が少弐氏に「大内義弘(よしひろ)」を倒せと命じていたのではないかという噂がながれたそうです。大内義弘(よしひろ)は室町幕府に属しながらも、足利義満に対し疑心が満ちていたようです。
その後、九州を平定して、朝鮮の利権まで獲得した大内義弘(よしひろ)に足利義満は、上洛を命じますが、大内義弘(よしひろ)は、「上洛したら殺される」と思い、のらりくらり、大阪の堺あたりで足利義満側の使者に拒否し続けますが、1399年(応永六年)に「応永の乱」が勃発し大内義弘(よしひろ)は、討死しました。