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■【より道‐98】戦乱の世に至るまでの日本史_時代を超えた因果応報「嘉吉の土一揆」

第六代将軍・足利義教(よしのり)は、兄、足利義持(よしもち)が否定した、父である足利義満(よしみつ)の政事の方針を習い、万人恐怖の専制政治体制をめざしました。

しかし、足利義教(よしのり)は、赤松満祐あかまつみつすけの企てによる「嘉吉かきつの乱」で殺害されます。「嘉吉の乱」は、比叡山延暦寺との抗争から、鎌倉公方討伐につながり、有力大名の家督相続に強引に介入した足利義教(よしのり)の因果応報のように思えます。

とはいえ、幕府の中心を混乱に陥れた暗殺事件は、赤松氏討伐までに、実に2か月を要し、その間に、赤松満祐は、足利直冬《あしかがただふゆ》(足利尊氏の庶子しょし)の孫をまつりあげて、後南朝の遺臣たちを集めました。

しかし、もともと、赤松氏のご先祖様は、後醍醐天皇率いる南朝勢力に陥れられた過去を忘れてしまっているように思えます。その場しのぎの対策ではうまくもいかないでしょう、だったら、まだ、関東と通じて室町幕府と戦った方が良かったようにも思えます。

とはいえ、今回は、室町幕府軍が、赤松氏討伐軍に、播磨国、備前国、美作国を攻め入ったタイミングで起きた、「嘉吉の土一揆」について、書きたいと思います。

それは、「尼子の落人」という我が家の家訓につながる重要な出来事だと思うからです。


■嘉吉の徳政令土一揆

赤松満祐が企てた第六代将軍・足利義教(よしのり)の殺害事件当日、将軍を置き去りにして、赤松邸の壁をよじ登り逃げのびた管領の細川持之ほそかわもちゆきに幕政をまとめるチカラはありません。

そこで、足利義教(よしのり)の長男、足利義勝(よしかつ)が、急遽、第七代将軍となりますが、わずか8歳の幼子です。それでも、赤松氏の討伐を果たさなければ、幕府の権威は地に落ちてしまいます。足利義教(よしのり)に家督を擁立された山名氏、細川氏などが赤松氏討伐に名乗りを上げて出陣しますが、その隙に「嘉吉の土一揆」が起きました。

もともとは、六角氏が所領する近江国の一揆がキッカケでその後、京にまで波及したわけだですが、その理由を調べると、将軍が代わったので借金をチャラにしろと、中世のノリで百姓たちが酒蔵や土倉、寺院などを襲ったといいます。

たしかに、足利義持(よしもち)から足利義量(よしかず)に代替わりしたときも、「正長の土一揆」が起きて、土倉らが持っていた借金の証文が破棄された過去もありますので、そういう、世情だったのかもしれませんが、ほんとに、そんなことあるでしょうか。誰かが焚きつけなければ、人は行動をおこさないような気もします。

一揆がおきるということは、守護が機能していないということになりますが、この頃の近江国守護・六角氏を調べてみると、六角満綱ろっかくみつつなが当主でした。六角満綱ろっかくみつつなは、足利義教(よしのり)が万人恐怖と言われるが所以の比叡山・延暦寺の攻撃に参加していたそうです。

延暦寺の僧たちは、室町幕府や六角氏に恨みもあるでしょう。一揆がおきた理由となにか、関連があるかもしれません。または、足利義教(よしのり)の政事に対立して隠居に追い込まれた、畠山持国もちくにの謀事かもしれません。

とにかく、「嘉吉の土一揆」は、赤松満祐討伐と同じタイミングで起きたこともあり、六角満綱ろっかくみつつなが徳政令を出して混乱を納めました。しかし、今度は、京都の土一揆が攻撃を開始し、数万人に及ぶ一揆衆が京都を包囲したため、物資の搬入が停止し食料不足が起こったそうです。そして、幕府は天下一同の徳政令を出すしかありませんでした。

その結果、六角満綱(みつつな)は、土一揆の責任を取って退任。息子で長男の六角持綱(もちつな)に譲りますが、その後、次男の六角時綱(ときつな)が、父の六角満綱(みつつな)と兄の六角持綱(もちつな)に反旗を翻し自害に追い込んだといいます。

こういう、一つひとつの歴史の積み重ねによって、じぶんの命につながっ
ていると思うと、なんだか、不思議に思います。


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