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■【より道‐44】満州国に設置された秘密部隊_731部隊と100部隊

日本人でも731部隊の存在は、敬遠したくなるほど恐ろしく、おぞましい研究部隊のイメージがあります。所説ありますが、同じ日本人が人体実験をしていたという事実です。しかも、もしかしたらですが、祖父が731部隊と同じ系列の100部隊に所属していたかもしれない。「知らぬが仏」ということわざもありますが、満州国の哈爾濱に住み、その後、蒙古連合自治政府で働くために張家口で働き、蒙彊家畜防疫處もうきょうかちくぼうえきどころの記事に「長谷部」の名が記載されているのをみつけてしまったので、調べないわけにはいきません。

パンドラの箱を開けるような、憂鬱な気分になる歴史ではありますが、戦争というものがどのようなものなのか。もしかしたら、ファミリーヒストリーにつながる可能性のあることなので、覚悟を決めて記してみようと思います。

■秘密部隊731部隊と100部隊
1930年(昭和五年)欧米出張から帰った石井四郎軍医は、細菌戦を準備する機関を設立するよう、陸軍省の幹部に説いて回っていたそうです。説得が功を奏し1932年(昭和七年)満州国が建国された年に、陸軍軍医学校防疫部に石井四郎ら軍医が属する「防疫研究室」が開設され、密かに人体実験が進められていました。

1936年(昭和十一年)になると、当時の関東軍参謀長・板垣征四郎によって「関東軍防疫部」が提案され、正式な部隊となります。このとき同時に関東軍軍馬防疫廠かんとうぐんぐんばぼうえきしょも編成されたそうです。

防疫というのは、伝染病を予防し、またその侵入を防ぐ機関です。現代では、コロナウイルスが世界の猛威となっていますが、「関東軍防疫部」は、コレラ、ペスト、梅毒、鼻疽びそ、炭疽たんそ、チフス、赤痢せきり、流行性出血熱などなどの研究をしていたそうです。

「関東軍防疫部」では、細菌の研究だけではなく、1937年(昭和十二年)から始まった日中戦争や1939年(昭和十四年)のノモンハン戦争では、最前線での給水活動・衛生指導を実施し、消化器系伝染病の発生率を低く抑えるなど大きな成果を上げたそうです。

「関東軍防疫部」は、哈爾濱はるぴん市街の南東約15kmの平房へいほうに、本格的な設備を備えた施設を建設して、1938年(昭和十三年)から1939年(昭和十四年)にかけて移転しました。平房の本部は1941年(昭和十六年)に「満州第七三一部隊」と改称されました。また、「関東軍防疫給水部」とは別に、新京に「関東軍獣防疫廠」、通称「満州第一〇〇部隊」があり、ここでは軍馬や家畜に対する研究を担当し人体実験も行っていたといわれてます。


■人体実験と細菌研究
七三一部隊の主要施設では、高電圧電流が流れる有刺鉄線を張り巡らした土塀で囲まれ、外部から完全に遮断されていたそうです。中心になる建物は「ロ」の字型をしており、その内側に「マルタ」と呼ばれた被験者を閉じこめておく特設の監獄が設けられていました。

「マルタ」にされたのは、スパイや共産主義などの思想犯の疑いをかけられて捕まった、中国人やロシア人、朝鮮人、モンゴル人などが汽車で哈爾濱はるぴん駅へ護送され、擬装された列車やトラックで監獄へと送り込まれたそうです。こうして人体実験で殺害された人々の数は3,000人以上にのぼるといわれています。

七三一部隊での実験の結果は、逐一、軍医学校防疫研究室に送られていました。教授たちを集めて研究発表会を行ったり研究論文集を編集したりする一方、教授たちを通じて若手の優秀な研究者を七三一部隊に送っていたそうです。具体的にどのような人体実験をしていたかというと、「手術の練習台にする」「病気に感染させる」「病床実験をする」「極限状態における人体の変化を知る」などの事柄が報告会で発表されたそうです。

細菌戦の実績とすると、日中戦争やノモンハン戦争で、ペスト菌を持つネズミの血を吸わせた「ペストノミ」をまいたと言われています。


■人の道を外れた理由
同じ日本人が、なぜ、そのようなことができたのでしょう。そのことについても考える必要があります。まずは、これが「戦争」というものなのだと思います。

① 勝利のためには、どんな事をしても許される
「国益のため、天皇陛下のために戦い勝利する」ということが至上目的となり、そのためにはどんなことをしても許されたのだと思います。細菌兵器や前線で役に立つ治療法の研究開発は勝利のために正当化されていました。

②戦争が倫理的判断力を失わせる
中国や朝鮮への軍事的支配により、スパイや革命家、その協力者と疑われた中国人や朝鮮人の人々の拷問や虐待、殺害が日常的になっていたのでしょう。人体実験や生体解剖することに対する倫理的な判断力が失われていたと思われます。

➂民族差別や人種差別、思想差別に対する恐怖と憎悪
当時の日本人は、中国人や朝鮮人・モンゴル人は劣等な民族であり、同じ人間として扱わなくてもかまわないという「民族差別」が日本社会全体に蔓延していました。また、共産主義者に対する恐怖と憎悪の眼差しも向けられていたと言われています。

④どのみち殺される者の利用
スパイや革命家、あるいはその協力者という疑いをかけられて捕らえられた人々は、拷問を受けて、正式な裁判もないままに処刑されていました。すなわち「どのみち殺される」存在とされていたのです。そこで「どうせ死ぬのなら、お国のために役立って死ね」という論理によって人体実験などが正当化されていました。

⑤ 密室・秘密部隊
しかし、さすがに関係者は、人体実験や生体解剖に用いて殺すことは人道的にはかなり問題があると考えていたようです。少なくとも、そのことが国際社会に知れると、日本にとって非常にまずいことになる、だからこそ、それらの事実は「秘中の秘」とされ、関係者は固く口止めされ、敗戦時には徹底的に証拠隠滅されたのです。


■敗戦後の秘密部隊
1945年8月9日、ソ連が太平洋戦争に参戦して満州国へ攻め込んできました。この日から秘密部隊は、細菌兵器の開発や使用、および被験者虐殺の証拠を隠滅することに全力を傾けます。

七三一部隊ではまず、生き残っていた「マルタ」を全員殺害し、遺体を焼却して捨てました。実験を記録した書類やフィルムなども焼却されました。主要な施設は工兵隊によって爆破され、とくに「ロ」号棟や特設監獄は念入りに破壊されました。また、部隊員やその家族は、ソ連軍に捕らえられないよう、特別列車でいち早く帰国しました。そのおかげで、ソ連軍や中国軍の捕虜になった七三一部隊の幹部や部隊員はわずかしかいませんでした。

日本を占領したGHQは、ただちに石井機関の調査を始めました。しかし、それは戦犯告発のための調査ではなく、細菌兵器研究の成果についての調査でした。1942年(昭和十七年)に細菌兵器の研究開発に着手したばかりの米国にとって、石井機関の研究成果は国防上非常に重要なものとみなされたのです。当初、関係者たちは、固く口を閉じていたそうですが、「細菌兵器の研究成果を全面的に米国に提供すれば、戦犯には問わない」という取引が、米本国政府の承認の下に確定しました。

それにより、秘密部隊の中枢を担った軍医や、七三一部隊に派遣され「マルタ」を虐殺していた研究者たちの多くは、戦後まったく罪を問われることなく、大学などの研究機関や企業の要職に着きました。そして、全面的に協力した医学界も、その過去を隠蔽することに成功したというのが731部隊、100部隊の都市伝説となっています。

犯罪には、「動機」「機会」「自己正当化」という三つの因果が重なったときに人は犯罪を犯してしまうといわれています。「動機」は戦争。「機会」は秘密部隊。「自己正当化」は、命令に背いたら殺される。マルタはどうせ殺される。中国人や朝鮮人、モンゴル人は民族的に劣っている。というところでしょうか。本当であれば、相当苦しい仕事だったと思います。

「戦争」は、サバイバルゲームのようなものではない。もっと、もっとドロドロしています。国を存続させるために、領土や民族の未来をつなぐために、ありとあらゆる手を使って戦ったご先祖様たちがいるということです。

自分たちが見ているきれいごとの戦争映画では当時の様子をちゃんと伝えきれていないと思います。世界の秩序を守るためには戦争は悪なわけです。


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