■【より道‐73】戦乱の世に至るまでの日本史_「足利一門」三管領・畠山氏
正直、若い頃は日本史なんか、まったく興味がありませんでした。日常生活でさえも、脳みそをはたらかせずに、本能に近い領域で生活していたわけですから、人の名前を覚えるのも一苦労でした。
それが、中年のオッサンになってから、まさかここまで日本史にハマると思っていませんでした。
きっと、ファミリーヒストリーを知ることで、自分のご先祖様が、日本の歴史のなか、どのように生抜き、そして、自分の命につながっているのかということを、考えられるようになったからだと思います。
このようなことは、じぶんだけではなく、この世に命を授かっているすべての人に何千年も続いているヒストリーがあるわけですから、誰もが生きる証しを持っているということになります。
しかし、いまを生きるのが精一杯な現代の世の中では、失われつつある考え方なのかもしれません。
ファミリーヒストリーというものは、本来であれば、ご先祖さまや、人を思う気持ちがある人であれば、だれもが、生きる礎となり、自らのこころを支えてくれる大切な事柄です。
もしかしたら、自由主義、民主主義のもと、日本は戦争に負けたことで、大切な文化を失いつつあるのかもしれません。
■有力武家の畠山氏
中世の時代に活躍した、それぞれ一族のファミリーヒストリーを知ることで、歴史がとても面白くなってきました。
今回は、畠山氏です。畠山氏の名前を聞くと「鎌倉殿の13人」を見る限り、坂東平氏の末裔だと思っていましたが、違いました。実は、坂東平氏の畠山氏は、鎌倉時代に北条氏に反抗して一族滅亡しています。
その時に、足利氏の分家が名門の畠山氏の領地と妻(北条時政の娘)を継承したことから、足利氏とは別に高い家柄を有したというのが史実のようです。
畠山氏の宗家は、1336年(建武元年)の「建武の乱」で、足利討伐の綸旨をだした後醍醐天皇や新田義貞に向けて、鎌倉から京の都へ向けて出陣しましたが、奥州から南下してきた、北畠顕家を、守護国である伊勢で止めることができず、責任を問われて領地を取り上げられたそうです。
そして、室町幕府が開かれたあとは、奥州に赴任し統治につとめると、1350年(観応元年)に発生した「観応の擾乱」では、足利尊氏派閥に属しますが、足利直義派との戦いに敗れ、自害に追い込まれたそうです。
そのため、畠山の宗家は、弟の息子に引き継がれます。じつは、この弟の息子は「観応の擾乱」では、足利直義の派閥に属していましたので、畠山氏は叔父と甥で対決をしていたということになります。
その甥も「観応の擾乱」で足利尊氏が勝利すると、室町幕府側に帰参して、足利尊氏と正室の赤橋塔子の次男で、鎌倉公方に任命された、足利基氏を補佐するようになりました。
しかし、足利義詮の「執事」をしていた細川清氏が政治的に失脚して南朝に寝返ると、それに同調していた畠山宗家も一緒に失脚してしまったそうです。
どうも、ここまでの畠山氏のファミリーヒストリーを辿ってみると、あまり、良い道を辿っているようにみえません。調べてみると管領の職につき、繫栄していくのは、足利三代将軍、足利義満の時代からのようです。足利義満の時代は、まだ、じぶんも学んでいないので、今後、あらためて、調べることにします。
さて、畠山氏と、ご先祖様の関係ですが、我々の系統には全くかかわっていませんでした。しかし、畠山氏は、能登の守護職をしていたそうですので、能登大屋荘の長谷部氏とはかかわっているかもしれませんね。
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