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■【より道‐10】長谷部信連

長谷部氏の始祖といわれる長谷部信連のことを調べてみると、色々な伝説や逸話を知ることができた。現代の日本人で約25,000人くらいの人が、長谷部氏の姓を名乗っているそうだが、すべては、この人、長谷部信連から始まっているといっても過言ではない。

調べたことを自分なりにまとめてみる。長谷部信連が伝説となっている所以は「平家物語」に記されているからだ。長谷部信連は久安3年(1147年)1月16日に遠江国(静岡県浜松市付近の村)で誕生する。

16歳で滝口武者(天皇の護衛)になり、常磐殿(京都八坂神社?)に入った強盗を二条堀川まで追いかけ、1人で4人を討ち取り2人生け捕りにしたことで武名をあげたそうだ。その後、後白河法王代第三皇子の以仁王(もちひとおう)に仕えることになる。

ときは、平安時代末期。「平治の乱」で勝利した平清盛は武士で初めて公卿(貴族)の仲間入りを果たし朝廷は平氏一族であふれていた。

世はまさに平氏の天下だ。

しかし「平氏にあらずんば人にあらず」という言葉が現代に残るほど平氏一族は傲慢で乱暴だった。みかねた後白河法皇が平氏を討とうと計画するが阻止され幽閉されることになる。このことで平氏一族に対する反発は、より一層高まることになった。

治承4年(1180年)に後白河法皇の第三皇子、以仁王は源頼政と平氏追討の計画(以仁王の挙兵)を図り、源氏一族に平氏打倒の挙兵・武装蜂起を促した。以仁王も自ら挙兵を試みるが、事前に平氏に発覚してしまう。このときに以仁王を近江国(滋賀県)の園城寺(三井寺)に逃がしたのが長谷部信連(33歳)といわれている。

■平家物語
以仁王を捕まえるための検非違使(けんびいし:違法を取り締まる使者)が御所にむかっていることを知った長谷部信連は、自分の女房(日吉社の神子)の薄衣一枚と笠を取り出して以仁王に女装して逃げるように提言する。一行はあわただしく出発していったが、部屋を見渡すと以仁王が大切にしていた小枝(笛)をみつけだし、信連は急いで後を追い二条高倉で小枝(笛)を届けることができた。

小枝(笛)を置いてきてしまったことを後悔していた以仁王は、信連にたいそう感激し「一緒に参らぬか」と誘う。しかし、信連は「あの御所に自分がいることは、京中のありとあらゆる者が存知ておりますので、夜中にいなくなったなどと言われる事は名を惜しむものです。官人どもの相手をして一方を打ち破って参るつもりでございます」と言って走り戻っていた。

案の定、六波羅の兵達が三百余騎で押し寄せてきた。検非違使である土岐光長(ときみつなが)は、門をくぐり「以仁王の謀反が露見したためお迎えに参りました速やかに御所のなかからお出になられませ」と大声で叫ぶ。

信連は「ただ今、以仁王は御所にはおられないが何事か、事の次第を申されよ」と返答すると土岐光長は「何を言うか。この御所じゃなければ何処にいらっしゃるものか。そういう事ならお探しいたせ」と兵を乗り込ませた。

信連は「常識知らずの官人どもの申し方だな。馬に乗りながら御門の内へ入るのでさえ、とんでもないことなのに、お探しいたせとは何事だ、左兵衛尉長谷部信連がいるぞ。そばに寄って怪我をするなよ」と言い放ち、屈強の兵たちを十四、五人切り倒した。しかし多勢に無勢、捕らえられてしまい六波羅に連行されてしまった。

翌朝、六波羅で尋問をうけた信連は「御所に何者か知らないが、鎧を着た者が三百騎ほどで打ち入ってきた。最近は物騒で盗賊も多いと聞く。ずけずけと御所に入り込む者がいたので討ち取ったまで、以仁王の御在所は存知あげない。たとえ存じておりましょうとも、侍ほどの者が、申すまいと決心している。以仁王のために首をはねられるのであれば、冥土の土産になる」と言い放った。

平氏の老少は「あっぱれ、剛の者の手本であるな。もし思い直すならば、当家に奉公せよ」と打ち首を免れ伯耆の日野へ流されたという。


■伯耆日野
伯耆日野に流された信連は、日野一帯の権力者である金持左衛門尉を頼り、金持に属して日野黒坂に住みついた。伯耆日野でも賊を討つなどの功をたてたといわれている。

『ある日、腹をすかせた信連が川を眺めていたところ、美しい女性が川の向こう岸に渡してほしいと頼んできました。信連は願いを聞き、川を渡らせると、女性は狐の姿になり信連の服の家紋を食いちぎり走り去ったという。追いかけた信連は、ご飯の前にたどり着き飢えをしのいだ』という伝説が残っている。

さらに信連は、京都の風景を懐かしみ伯耆日野の地に延暦寺、長楽寺、祇園神社をつくったという。現在も日野下榎には「長谷部館跡」が存在し、長谷部信連の子孫が勧請したと言われる日野厳島神社には長谷部家31代当主がご存命している。

■鎌倉時代
以仁王が全国に命じた「国々の源氏よ平氏を討て!」その言葉で源頼朝はじめ、全国の源氏が立ち上がり挙兵した。有名な「源平合戦」だ。当初は平氏優勢で戦が行われたが、源頼朝が背水の陣で臨んだ「富士川の戦い」で、水鳥が飛び立った羽音を敵襲と間違えた平氏一族が戦わずに逃げ帰ったり、源義経の「鵯越(ひよどりごえ)の逆落し(さかおとし)」、「壇ノ浦の戦い」では、義経の船から船へ飛び移った「八艘飛(はっそうとび)」などの伝説が語り継がれるほど、源氏の勝利は現代に残っている。

祇園精舎の鐘の声
諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色
盛者必衰のことわりをあらわす
おごれることも久しからず
ただ春の夜の夢のごとし
たけき者もついには滅びぬ
ひとえに風の前の塵に同じ

「この世のものはすべて移り変わるはかないものである。どんなに栄えているものも必ず衰える。どんなに偉そうにしている者もその繫盛は長くは続かない。それはもう、春の夜に見る夢のようなもの。どんなに強い者も最後は滅んでしまう。まったく風が吹けば飛んでしまう塵と同じだ」

平家滅亡後、源頼朝が創設した武家政権、鎌倉幕府が樹立されると源頼朝は、以仁王の遺臣である長谷部信連を探し出し「剛の者のたね継がせんとて」「由利小藤太が後家に合はせ」と旧功を賞した。そして、信連は関東御家人となり、安芸国宮島の検非違使所に補され、さらには能登国珠洲郡大家荘を与えられた。

■能登国大屋荘
文治2の1186年、長谷部信連(39歳)は源頼朝に従い武功を立て続け領地を広げていく、最後には出家をしたともいわれているが1218年(72歳)で大屋荘の河原田で没したと言われている。大屋荘では、39歳から72歳までの33年間で5人の男児を産み、その子孫は長氏と名乗ることになる。戦国期には一度お家断続になりそうなこともあったが、加賀国前田家の家臣として存続した。

こんな伝説もある『一日、信連が領内を巡視した時、偶然にかれは白鷺が降り来たって葦原の小流に病脚を浸すのを見た。これが、もとで霊泉を発見し、のちに有名となる山中温泉の発端である。また、山中温泉が一名白鷺温泉とも呼ばれる由来でもある』

石川県には、長谷部信連を祀った「長谷部神社」や「長谷部まつり」があるという。いつか行ってみたいものだ。

■始祖信連
他にも、武蔵長谷部氏、尾張長谷部氏、伯耆長谷部氏、備後長谷部氏、筑後長谷部氏、津江長谷部氏など長谷部信連の子孫と語られている文献を多くみつけた。

他にも姓は、蔵田だが先祖は信連といわれている記事もあった。鎌倉殿の公認で「多くの種を残せ」と言われた長谷部信連だ。若き頃、京都にいたときの女房を含め全国各地に多くの子孫を残し現代の我々につながっているのだろう。

■三浦氏
長谷部信連は桓武平氏の一派三浦氏のながれであり三浦義明の五男義季が後に改名したと言われている。

源頼朝が亡くなり息子の源頼家が政務を執行したがチカラがなく、源頼朝の妻であり頼家の母である北条政子が源頼家から実権を奪った。そして政治を行ったのは有力者13人。一般的には、「宿老十三人の合議制」と呼ばれているが、そのひとり三浦義澄は、長谷部信連の兄にあたる。

そして、三浦一族の上流、千葉氏の家紋は九曜紋だ。


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