価値と科学
―新型コロナウイルス緊急事態宣言に際して(3)-
2020年4月15日 神戸大学V.School長 國部克彦
価値の規準として一般に真善美があるとされている。「真」とは普遍的な正しさ,「善」とは共同体の中での規範,「美」とは個人の判断であり,それぞれ価値の範囲が異なる。つまり,価値には自分にだけ価値のあるもの,自分の周りの人たちも含めて価値のあるもの,全世界に共通に価値のあるものの3つの層がある。その中で,「真」の規準となるものは,現代社会では科学である。現在の新型コロナウイルス禍の状況下においても,専門家と呼ばれる科学者が大いに頼りにされている。
安倍政権首脳は,新型インフルエンザ特措法に基づく緊急事態宣言の発出を国民から迫られたとき,専門家の意見を聞かなければ我々は決められないという,弁明を繰り返していた。コロナウイルスに関する政府の専門家会議がどれだけ政治から独立しているか,政治家が実際にどれだけ専門家の意見を参考にしているかは別にして,科学は私たちの社会の判断基準に明確に組み込まれている。
もちろん,専門会議には,日本を代表する感染症等の専門家である科学者が集められ,現状を分析し,政府の諮問に答えているはずである。しかし,いくら専門家といっても,新型コロナウイルスは人類にとって未知のウイルスであり,専門家にとってもわからないことだらけである。当たり前のことであるが,科学には限界がある。そのような場合に,科学に価値判断をゆだねてよいのであろうか。
しかも,科学者といっても,意見が一致するとは限らず,むしろ科学者の見解は通常きわめて多様であり,政府に集められた科学者の判断が正しいという保証はどこにもない。逆に言えば,簡単にチェリーピッキングできてしまう。しかもコロナウイルス問題のように,私たちの生命にかかわる問題については,「完全な専門家」など存在しない。このような場合は,私たち「素人」も,それぞれの立場で最善を尽くすことが求められる。そのためには科学との距離の取り方を理解する必要がある。
専門家と素人を分ける一つの規準は,証拠へのアクセスである。私たちは専門外のことでも資料やデータは収集できる。しかし,専門家としての訓練を受けない限り,コロナウイルスそのものを取り扱うことはできないので,「科学的証拠」を提供することはできない。しかし,出された証拠の解釈は,科学の世界だけでは対応しきれない。科学ができるのは,提示された証拠が「妥当」であることを示すところまでである。もちろん,訓練を積んだ専門家のほうがデータの解釈は優れていることが多いが,解釈にあたって考慮すべき要因の範囲を考えれば,データの解釈はその解釈に影響を受ける国民に開かれているべきである。
そのときに特に重要なことはリスク対する解釈である。福島第一原発の事故の時にも経験したように,放射能が人体に影響がないというのは,確率(リスク)の問題であって,その確率に対する行動の判断まで科学に任せることはできない。リスク回避の程度は,原則として個人が判断すべき価値であって,これを国家が強要すべきではない。そのためには素人も自分の身に影響するデータについては,しっかりと読み込み,信頼できるかどうかを確かめ,一人一人ができる限り正しく判断する必要がある。
コロナウイルスに関しても,感染者が何人いるのか,致死率は何パーセントなのか,重症化の程度は地域や年齢,性別で異なるのかなど,多くの公表されているデータを少し分析すれば,誰でもある程度のことは見えてくるようになる。マスコミの2次加工データにだけに頼っていては,非常に偏向しているため,本質が見えなくなり,結局押し付けの価値観に従わざるを得なくなる。自らに降りかかるリスクは,まず,自分で評価し,判断しなければならない。
価値の規準である真善美の話に戻れば,科学が限定付きの「真」として提供できるのはデータまでであり,データの解釈は個人が判断しなければならず,個々の判断が社会に共有されたとき善とすべき規範が生まれることになる。コロナウイルス禍での行動規範の形成は,科学と社会の関係の在り方によって決まると同時に,その在り方そのものの変容を迫っている。
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