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大学教育と想像力

―価値創造サロン第1回の論点から―
2020年5月8日 神戸大学V.School長 國部克彦

 神戸大学V.Schoolの記念すべき「価値創造サロン(第1回)」(オンライン)は,5月7日に90名近い参加者を得て,無事終えることができた。初回なので,肩に力が入りすぎて,やや盛沢山になっていたかもしれないが,知識や情報だけではなく,もし何らかの刺激を聴衆に与えることができていればうれしく思う。なお,サロンの模様は後日V.SchoolのHPで公開する予定である。
 「価値創造サロン」は,3人の登壇者のトライアローグ方式で進めることになっていて,初回は,V.School長の國部と,価値創発部門長の玉置久さん,価値設計部門長の忽那憲治さんが登壇者で,司会はV.School助教の祇園景子さんが務めた。事前に祇園さんに,「議論を盛り上げるために,各登壇者の話の後で,簡単な質問をしてほしい」とお願いしていたのであるが,案の定,いきなり直球の質問がきて,冷や汗をかいてしまった。ここにその言い訳と若干の補足をしたい。
 サロン全体のテーマは「新型コロナウイルス以後の世界と価値を考える」という壮大なものであったが,私は,カミュ『ペスト』から,ペストに汚染されたオラン市の中で立ち上がろうとしている市民タル―の下記の言葉から話を始めた。

 「彼らに欠けているのは,つまり想像力です。彼らは決して災害の大きさに尺度を合わせることができない。で,彼らの考える救済策といえば,やっと頭痛風邪に間に合うかどうかというようなものです。彼らに任せておいたら,みんなやられてしまいますよ。
しかも彼らと一緒にわれわれまでも。」(『ペスト』新潮文庫,181ページ)

 ここで「彼ら」とはオラン市の政治家,役人たちを指しているのだが,これはまさに今の日本と状況が酷似していること,それを打破するには「想像力」が必要なことを,私は最初に述べて,新型コロナウイルス後の価値の問題を考えたいと述べた。
 話の内容は省略するが,私の講話に対する祇園さんの最初の質問は,「大学教育において想像力を高めるにはどうしたらよいか」という趣旨のものであった。正直に言って,自分で「想像力」が大切と言っておきながら,それを高めるためといって導入される教育にはほとんど意味がないと感じていたので,大学教育と絡められてしまうと,瞬間的に答えに詰まってしまった。(このときは表情を読み取られにくいオンライン討議でよかったと思った。)
 「想像力」とは価値の創造と同じで,教えられるものではないし,教えられた「想像力」なんて,ほかの人には何の想像もかきたてないであろう。人の心を揺さぶるような「想像力」は,想像しようと思わなくても,自然に湧き上がってくるものでないといけないし,そうでないと人を感動させることはできない。私が,議論したかった「想像力」はこのようなものである。
 したがって,大学教育はこのような「想像力」を直接養成することはできない。むしろ,逆で,大学では,論理構成がきちんとされているか,データと結果の整合性はとれているか,反証の可能性はないかなど,できるだけ厳密な思考が求められる。一見,そこには「想像」などさしはさむ余地などないかのように思われる。しかし,思考を厳密に展開すればするほど,そこには現在の思考では到達できない地点があることが見えてくる。そこに至るためには思考を飛び越える「想像力」が必要で,そのような「想像力」を育成するためには,厳密な科学的思考の教育が必要であると答えてしまった。
 ところが,ここまで答えてみて,上記の「想像力」は,『ペスト』でカミュが登場人物のタル―に言わせた「想像力」と同じ水準のものではないことに気が付いた。タル―(カミュ)が言っている「想像力」とは,他者の状況に思いを至らせる「想像力」なのである。つまり,政府は庶民の生活を理解していない,ということだ。そこでサロンでは,もうひとつの「想像力」として,「他人の経験に共感すること」という趣旨の返事をした。つまり自分の世界だけで閉じるのではなく,他者に対して心を開くこと,これがタル―(カミュ)がいう「想像力」である。
 しかし実は,この2つの「想像力」の本質は,非常に類似している。どちらも,今の自分にないものに思い至るという点では共通している。前者の場合は,学術的訓練が必要であるが,後者の場合は,今の自分をとらえている枠組みを壊さなければならない。政府がなぜ庶民の生活に関する「想像力」を失っているかと言えば,それは政府を動かしている思考の枠組みにのみ依存していて,その枠組みの外にある事象に思考が及ばないからである。(現在の日本国政府の迷走ぶりを見ればよくわかるであろう。)したがって,「想像力」をもつためには,その枠組みに気づいて,それを乗り越える必要がある。これは,科学的思考において既存の理論を乗り越えることと,形式的には同じことである。
 では,「そのような想像力を育成するために,大学教育は何をなすべきか?」祇園さんの鋭い質問はなかなか私を許してくれなかった。「想像力」そのものを育成できない大学が,提供すべき「想像力」育成のための方法という,一見,言語矛盾的な要請にこたえることができるとすれば,それは実践(practice)の活性化であり,それを支えるプラットフォームの構築である。
では,そのプラットフォームとは何か。そのためにV.Schoolは何ができるのか。この最も重要なポイントについて,サロンでは,玉置さんと忽那さんの話が続くのである。

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