愛するサッカーがくれたもの。「しがないライター」の半生【1】
2024年は、僕にとって人生が1番変わった年。
もしかすると、今後もこれほどプラスの方向へ変化する年はないかもしれません。
エル・ゴラッソの長崎担当となり、エル・ゴラッソ、サッカーマガジン(2024年10月号)、ホームゲーム時のMDP(マッチデープログラム)などで執筆する機会というのは、幼い頃からサッカーやJリーグ、日本代表が好きな僕にとって、社会人として全く優れていない僕にとって、それほどまでに大きな出来事でした。
そのチャンスをくださったエル・ゴラッソ、温かく受け入れてくださったV・ファーレン長崎ならびにV・ファーレンのファン・サポーターの皆様には、心の底から感謝しています。
今回は、僕自身の話を語らせてください。
以下の話は一切盛っておりません。
むしろ、家族に迷惑のかからない範囲で、かなり赤裸々に語っています。
もしかすると、ライターとしての評価は下がるかもしれません(笑)
それでも「不器用な人間の半生」を垣間見ていただくことで、どなたかに勇気を与えられたら幸いです。
また、正直に語っているために、途中まではアビスパ福岡の話題が多くなることをご了承ください。
【2】では徐々にV・ファーレン長崎に関する内容が増えております。
人生に大きな影響を与えたJリーグ誕生
福岡県で生まれ育った僕は、日本リーグ(JSL=Jリーグの前身)を現地に観に行くほどだった父親の影響を受け「サッカー」というものに興味を持ちました。
Jリーグが開幕した当時は4歳。
それでも1993年の開幕戦、ヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)対横浜マリノス(現・横浜F・マリノス)をテレビで見て、それを録画したビデオは何回も何回も見返していたほどです。
Jリーグが誕生した当初は、ヴェルディ川崎を応援していました。理由は2つ。
「強いから」という子供らしい単純なものと、当時九州にJリーグのクラブがなかったから。
選手の名前は、Jリーグのトレーディングカードを集めながら覚えていきました。
ビスマルク選手や三浦知良選手が好きで、特にビスマルク選手のゴールパフォーマンスは散々真似していました。
また、柱谷哲二選手をなぜか「はしらたにてっじ」と呼んでいた記憶があります(笑)
サッカーを観ることは好きな一方で、生で試合を観る機会はほぼありませんでした。
何年のことか覚えていませんが、野球場である福岡ドーム(現・みずほPayPayドーム)で開催された、浦和対どこかの親善試合ぐらい。
最も西のクラブはサンフレッチェ広島で、サッカーは「面白いけどテレビの中のもの」という感覚でした。
突然「目の前にあるもの」へ
それが突然「目の前にあるもの」に変貌します。
「静岡県藤枝市の『中央防犯FC藤枝ブルックス』が福岡に移転する」。
そのニュースは、サッカーやJリーグに憧れていた少年にとって物凄い衝撃でした。
「僕が住む『福岡』にサッカーチームができるんだ」。
それは何事にも変え難い喜びでした。
短いながらも「ない時代」を知っていたからこそ、余計に嬉しかったのだと思います。
クラブは藤枝から福岡へとやって来て、1995シーズンに「福岡ブルックス」という名前でJFLを戦うようになります。
博多の森球技場(現・ベスト電器スタジアム)ではなく、平和台陸上競技場で試合をしていた1995シーズン序盤から、父親に連れられ試合を観に行くようになっていました。
福岡ブルックスはこの年のJFLで優勝。
1996シーズンから「アビスパ福岡」として、晴れてJリーグのチームとなりました。
僕の街にJリーグがある。目の前でJリーグの試合が観れる。それは何よりの幸せでした。
それからは、熱い熱いアビスパ福岡のサポーターとなりました。
大事なのは「サッカーがあること」
僕は一人っ子なうえ幼い頃から母親がおらず、父親と祖父母に育ててもらいました。それでもどこか寂しさがあったため、余計にサッカーというものに陶酔したのかもしれません。
「週末にスタジアムへ行けば、サッカーがある」
それは勝敗より遥かに大きな価値でした。
幼い頃の写真を見返すと、家庭でいろいろとあったあとの約1年間、全く笑顔がありません。
当時から、サッカーに救われた部分は大きかったと思います。
悲願の「Jリーグクラブ」となったアビスパ福岡ですが、苦難の時期が続きます。
とにかく勝てない。ホームゲームは毎回のように観に行っていましたが、負けるのは当たり前。
でも正直、僕にとってはそれほど関係はありませんでした。
「強いこと」ではなく「福岡のサッカークラブであること」が応援し始めたきっかけだったからです。
何度もされた「なんで応援するの?」という質問
そんなアビスパですが、2000年に1度目の歓喜の時期を迎えます。
ネストール・オマール・ピッコリ監督のもと、2ndステージ(当時2ステージ制)で躍進。
終盤まで優勝争いに加わるとともに、当時のJリーグで2強を形成していた鹿島アントラーズと引き分けジュビロ磐田に勝利したことは、その後しばらく僕の誇りとなっていました。
ただ、翌年にはJ2降格。その後はかつて「5年周期」と呼ばれた、4年かけて昇格し1年で降格するという時期を20年にわたって繰り返すことになります。
そんな状況だったので、福岡の街でアビスパを応援する人はかなりの少数派。
ただでさえ野球人気の高い福岡で、小学生の頃からアビスパを熱狂的に応援しそれを公言していた僕は、何度となく「なんで弱いのに応援するの?」と質問されてきました。
当時の僕としては「弱いからこそ応援が必要だろ?」という考え。
いくらいじられても馬鹿にされても、周りの声でブレることはありませんでした。
同級生の皆は学校での思い出を書いていた小学校の卒業文集に、アビスパ福岡のファン感謝祭に行ったことを書くほど変わった子供でした(笑)
夢の1つは日本代表がW杯で優勝すること
「生まれ育った福岡のチーム」であるアビスパを応援し始めた僕は「生まれ育った日本のチーム」である日本代表も自然と応援するようになります。
日本代表が初めて本大会に出場した1998年のフランスW杯は、父親の部屋にあったブラウン管テレビで見ていた光景までも覚えています。
日本代表の試合は現在まで強化試合もほぼ欠かさず見て、W杯やアジア杯ではとてもお見せできないほど熱狂的に応援しています(笑)
日本代表がW杯で優勝することは、これまでもこれからも僕の夢の1つです。
優先順位はまず「サッカー」「Jリーグ」
幼少期に「サッカー」や「Jリーグ」を好きになったことがスタートであり、決して「アビスパ至上主義」にはなりませんでした。
強いて言えば「サッカー至上主義」でしょうか。
僕にとっては、サッカーがありJリーグがあって、そしてアビスパがある。この順番は不変です。
そのため、例えばアビスパが強ければJリーグや他のクラブがどうなってもよい、ということは決してあり得ませんでした。
この考え方はライターとなった今、とても役立っているように思います。
大学時代はサッカーが精神安定剤に
アビスパとともに育った僕は、福岡から出るという選択肢自体がないまま進学。
後にいろいろと影響を与えることになる、親友のT君と出会った高校時代を経て、福岡で大学生となりました。
ただ、高校生から大学生へと大きく環境が変わったちょうどその時期に家庭内でもいろいろとあり、精神的に参ってしまいます。
家庭での出来事と環境の変化に適応できず、入ったばかりの大学生活にも支障が出るようになっていました。
朝、大学に向かうために満員電車に乗ると人混みで呼吸が苦しいという感覚に陥り、1駅で降りざるを得ない。
大学のテキストを見ていると、漢字が読めなくなる(多分ゲシュタルト崩壊)。
でも、祖父母に心配はかけたくありません。
家を出て最寄り駅まで向かい、通勤・通学ラッシュが終わってから電車に乗り、どこかで授業時間だけやり過ごす。
今、自分自身が親という立場になり本当に申し訳なく思っていますが、楽しいはずのキャンパスライフの時期に、そんな無意味な時期を過ごしていました。
そんな中、サッカーが僕の精神安定剤でした。
「試合日にスタジアムに行けばそこにある」「定期的に試合がある」ことが重要だったのだと思います。
観戦には行けない時もサッカー雑誌を読んだり、当時流行っていたブログにサッカーに関することを書いたりすることで落ち着いていました。
今振り返ってみると、このブログから「書く」ことがスタートしています。
卒業後、福岡で介護士へ
最悪のことを考える時期もありましたが、そこからは大学にいるカウンセラーの方の力を借り、毎週話を聞いていただくことで精神的に徐々に改善。
普通の人より時間はかかったもののなんとか大学を卒業し、福岡で介護士として就職しました。
祖父母が親代わりのような存在だったこともあり、お年寄りと接することに違和感はありませんでした。
天職というほどではなかったものの物凄く嫌ということもなく、そこからいわゆる老人ホームで3年半、ご利用者の自宅や施設などを車で回る訪問介護士として3年半ほど勤めることになります。
プライベートでは結婚し、ありがたいことに2人の子供にも恵まれました。
その間、ブログから流行るようになったインスタグラムへと場所を変え、細々と文章を書くことを続けていました。
けれど、これらを多くの人に読んでもらおうという気は全くありませんでした。
なぜなら、批判されるのが怖かったからです(笑)
振り返ると時々あった、長崎との縁
この間、多少長崎との縁もありました。
何年かは覚えていませんが、アビスパとV・ファーレンの試合をトラスタで観戦。
2018年6~7月には諫早市美術・歴史館で開催された「草場道輝原画展」に誘われ、日帰りで諫早へ。原画展に加えて諫早市内を観光しました。
また、2015年のJ1昇格プレーオフでアビスパはV・ファーレンと対戦しました。
この試合は友人の結婚式と重なり現地での観戦は叶いませんでしたが、ともに結婚式に出席したサッカー好きの親友と、スーツを着て引き出物を持った状態でタクシーに乗って近くのスポーツバーへと向かい観戦しました。
トラスタでの観戦、原画展に諫早観光、2015年のプレーオフ。振り返ってみるとこの3つの出来事はいずれも、高校で出会った親友・T君とともに経験したものでした。
彼はのちに、無意識に僕の人生を変えることになります。
2015年の昇格プレーオフではアビスパが勝利した試合のあと、V・ファーレンサポーターの方が涙ながらに「いっちゃえJ1」と書いたボードを持っている映像を見て、「V・ファーレン長崎」というクラブに良いイメージを持つようになりました。
ただ、この時点ではまさか長崎に通うことになるとは、自分自身がV・ファーレンサポーターのようになるとは、夢にも思っていませんでした。
【2】へ続く