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どちらが地獄か 〜母の遺品と文学フリマ〜
12月1日 東京ビッグサイトで開催される『文学フリマ東京39』に出店します。今回はそんな話が中心です。
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わたしの母は昔漫画家を目指していた、らしい。
らしい、とあいまいにぼかすのは母は7年前に他界し、今となってはその仔細を本人に聞くことがかなわないからだ。
わたしの手元に母が若いころに描いていた漫画原稿が一作品だけ残っている。
今でこそデジタル環境下で描かれる漫画が主流だが、母の残した原稿はもちろんアナログのものだった。
ベタ塗も、緻密に書き込まれたかけ網も手描きで、そもそもの用紙自体が物体を伴った紙であり、今では紙特有のひんやりとしたかび臭い図書館の書架のような匂いが立つものとなった。
アナログという言葉を当てはめてしまうと、途端に古臭く時代から遅れたものに感じるけれど、実態があるせいかその中に込められた重さというか熱量は、数十年たった今でもより生き生きと感じるように思う。
くだんの原稿はここ数年わたしの部屋のクローゼットに押し込まれていた。いつかデジタル化してきちんと製本したいなという気持ちがたびたび浮かんだけれど、日々のあれこれに流されてその思いはおざなりになり、母の原稿は日の目を見ることなくクローゼットの中で静かに眠り続けていた。何かが大きくあったというわけではないが、今年の5月の連休にわたしはやっと思い腰を上げこの原稿と向き合うことにした。
漫画をデータとして取り込み、セリフを打ち込み、スキャニングの関係で生じたノイズやごみを取り除き──それらの名前のつかない地味な作業に、仕事や家事の合間にラジオを聴きながらせこせこと手をつけた。
母の原稿に「修正」という形で関わるわけだが、自分の目の前から消えてしまった故人の片鱗に触れるのは、どこかこそばゆく同時にじれったい思いが浮かぶものだった。
主人公キャラクターをどう肉付けしたか?このシーンはどのような考えで書いたのか、プロット・カット割を練るときに気にしたことは、ストーリー構成で意識した点は?そもそもこれは何らかの賞への投稿作品として描いたのかなどと。
あれこれと疑問も聞きたいことも浮かぶのだけれど、答えてくれる母の姿はすでになく、あの世とスカイプでもできればなと思ってもしがないことをわたしは考えた。
母がこの世を去ってから7年が経った。
初年度こそ悲しみから母を想うことはあったけれど、わたしの中で母に裂かれる感情は時間とともにだんだんと少なくなっていった。もちろんそれはわたしが喪失を受け入れ、心が健康であるからだと思いもするが、同時に少しだけ薄情な気もしてしまう。
そんなわたしにとって母の残した原稿と向き合う時間は、母の知らない一面を掘り下げていくようで、贅沢な時間だったと言えるのかもしれない。
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さて原稿の裏に残っていた当時のメモ書きによると、漫画については母が21歳のころの1979年、今から45年前に描かれたものであることが示されている。令和6年の今から見ると原稿に映し出された45年前の世界は、当然現代とは違った時代の価値観が色濃く刻まれていた。
母の漫画作品『依子の夏』──
主人公である「鈴木依子(すずきよりこ・32歳)」に定職はなく、また子どものいない専業主婦として描かれている。物語は彼女の日々を中心に進んでいく。
専業主婦であることを依子は負い目に思うわけでも恥じるわけでもなく、また誰かに指摘されることもない。依子は日々文化センターに通い、絵画だ料理だ、英会話だスポーツだと有閑主婦として過ごす姿が描かれている。
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現代の感覚から見ると時間にも金銭的にも随分と余裕が感じられ、子育てに追われることもない悠々自適な生活は、どこかおとぎ話のようにふわふわとした手触りのない日常に思える。ちなみに物語の主となる依子だが、自立したいとも、仕事を通じて自己実現をしたいという描写も作中では描かれていない。加えて主人公・依子の夫「鈴木良人(すずきよしと)」は、始終仕事一本のサラリーマンで、家の中で当たり前のように悠然と煙草をふかし、新聞一つ自分で取ろうとしない姿が見られる。
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家事を手伝うという描写どころか、妻を気遣う描写もほとんどない夫・良人。漫画の中で依子が途中タバコを吸うようになるのだが「みっともない」と口にするのも印象深い、亭主関白とはこういうことだろうか。
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依子が夫である良人のことを『モーレツ社員』と、からかい言うのも時代を感じるもので、『社畜』という言葉が常となった現代では、すっかりと消えた価値観が紙面の上に刻まれている。
冒頭のシーンで主人公・依子は十ほど年の離れた桜井美和という女性と出会う。美和の年齢は物語の中ではっきりと示されていないが、頼子より7〜8歳ほど年下だろう。
そんな美和に対して、依子は早々に「若いんですもの、美和さん素敵な恋人いらっしゃるんでしょう?」と、さも当たり前に恋人がいることを尋ねてみせる。
この令和であれば同性間のセクハラとして「あの人アップデートされてないよね」「古いんだよ価値観が」と、くすくすと後ろ指を指さされてしまいそうな振る舞いに、現代を生きるわたしは少しひやりとしてしまう。
後にこの美和と依子の夫が不倫の関係であることを知り、そこから依子の孤独が深まるのだが、最後まで依子の中に強い自立心や自己実現は芽生えないままだ。美和にも依子と似たような印象を受ける。つまりこの時代は、成人した男女は結婚し、その上で夫婦として幸せになることが命題にあったのだと、個人ではなく夫婦や家族に重きが置かれる時代だったということが伺える。
もちろんこれらの描写は、母個人に突出した価値観ではないように思う。
わたしの母はどちらかというと自立心が強く、一方で父は「女は男に尽くし、立てるべき」という封建的な考えを持っていたため、わたしの両親の関係はだんだんとずれていった。母と父とはわたしが10歳ほどの頃に別居をし、後に離婚へ至った。もちろん21歳の母と、さらに十数年後の母の考えは異なるものだろうけれど。
45年前となる1980年前後の在り方は今よりずっとシンプルだ。成人した男女は結婚し、女は家に入り家庭を彩り守り、夫は家族のためまたは会社のために仕事に徹するというのが疑うことのない価値観として根ざしている世の中だった。それらがアマチュア以下の一個人・母の漫画原稿からもくっきりと伺い見えてくる。
改めて『価値観』という言葉をAIに尋ねてみた。いかにも令和な所作だけれど。AIによる『価値観』とは次のものである。
価値観とは「個人や集団が何を重要と考え、何に価値を置くかという基準や信念のことを指す。具体的に以下のような要素が含まれる。
・倫理観や道徳観:何が正しいか、何が間違っているかという判断基準。
・美的感覚:何が美しいか、何が醜いかという感覚。
・優先順位:人生において何を最も重要視するか(例:家族、仕事、自由、健康など)。
・信念や信条:宗教的な信仰や哲学的な考え方。
価値観とは個人の経験、教育、文化、社会的背景などによって形成され、変化していく。
価値観の相違は同じ出来事や状況に対する反応や解釈の異なりを生じさせる。
価値観は人間関係や社会の中での行動に大きな影響を与えるため、他者の価値観を理解し尊重することが求められる。
さすがというAI的な無駄のない答えだ。
母の漫画には80年代前後の価値があざやかに刻まれている。
男女の関係性、大きく言えば幸せの定義というか、結婚が是となっていた世の中のそういった考えたちが。
母の漫画を通じ45年前の「当たり前」に触れながら、家父長制に準じた価値観をわたしは当然古臭く感じる。それと同時にシンプルさという点では若干(ほんの少しだけれど)羨ましく思う自分もいることにも気がついた。極端な見方だけれど、45年前はやや無思考で生きられた世の中なのだとわたしは思ってしまうのだ。
無思考というと少しだけ強すぎる言葉かもしれない、世の中から「こう生きるべき」というマニュアルが手渡されていた、そんなニュアンスだと受けてほしい。
義務教育を終え高校に進学し、就職または大学へ進んだのち就職して結婚。結婚したら子を持ち、第一子を授かれば第二子 ──とそういったあるべきルートと、やるべきタスクが今よりずっと強固で明確だったように思う。
幸せとは?という在り方が示されていたのだ。
もちろんその代償として、個人としては無理や我慢を随分と強いられた時代だったろう。
令和の現代は何がスタンダートであるかがわからないほどの、価値観や生き方が乱立している。そしてこれらは今後さらに枝葉を分けていくように思う。
例えば自国で生きるのか、何を飯の種としてどう生きるかなど。場所や職業だけではない、誰をパートナーとするのかしないのか、それらの選択を迫られていく。そして同時に選択への責任は負えるのかと、常に強く問われているようにも感じる。
なにかを考え生きていても、何も考えず生きていても、自分の考え・価値観によって今の生き方を自分で選び取ったのだと、行動のすべてに「責任」という注釈の札がデカデカと貼られ、何かあればそれを指差し言われるのだ。
「だってあなたの責任でしょう?」と。
自分の生き方に責任を持つ、自責の時代。もちろん責任はどの時代にもあるけれど、その責任がより強固なおもりとなってわたしたちに付きまとう。
いうなればこの「自責」の重さこそが、現代に広くそして強く流れる通念なのかもしれない。
45年前にはきっとその時代の生きづらさがあった。
母の漫画の中で、主人公・依子の主軸は家庭と夫であり、他の自分を見い出そうともしない。家の外にあるたくさんの選択肢やチャンスに目を向けることもなく。
個人の在り方に幅がある現代、もちろん過去とは比べられないほどの自由や手軽さをわたしたちは手にしている。けれど同時に強い自己責任を問われる時代でもある。生きづらさという点で天秤にかけたなら、どっちに傾くだろう。
それぞれの時代でわたしたちは、きっと異なる地獄を生きているように思う。今も45年前も同じ地獄であるなら、多少の選択権がある分現代の方が少しだけましだと思いたい。そう思える今であればいいなと願ってみたりする。
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さて、母の漫画に話を戻す。
私は母の漫画を同人誌(自費出版の制作物)に起こすことにした、もちろん母はとうに亡くなっているので同意は得られないままだけれど。あの世で「ちょっと待ってよ」と首を横に振っている母がいるかもしれないが、その姿は良くも悪くもわたしの目に映らない場所にある。
母自身が自分の残した漫画をどう考えているのかわからない。本当は破り捨てたいけれど踏ん切りがつかなかった──そんなものだったかもしれない。となるとわたしは母の恥部を勝手に晒すことになってしまう。
母に対する敬意というか誠意というか、わたしなりの配慮として作品を勝手に同人誌にするならば、私もそれに倣うべきだとそんな考えに至った。そんな思いつきを経て、母の漫画の続編という形をとり私が小説を書くこととした。
『母・漫画パート×娘・小説パート』そんな形の合同誌『ペインフル』。
これでおあいこだ!と河川敷でタイマンする不良のような思考回路に、我ながら少し笑ってしまう。
というわけで『母娘の合同誌』が間も無く完成しようとしている。
何かの指標がないときっと途中で投げ出してしまう、自分の弱さを嫌なほどに知っているわたしは、過ぎたものだと思いもしながら『文学フリマ』への参加に踏み切った。こうして冒頭の一文「12/1 東京ビッグサイトで開催される『文学フリマ東京39』に出店します」に回帰する。
長々と書いたけれど、12月1日東京ビッグサイトで開催される『文学フリマ東京39』への出店がかなった。
出店名は【猫の額ほどの】、ブース位置は【す-30】となる。
持ち込みはこの『母娘の合同誌』こと『ペインフル』の一冊となる。
初参加かつ、自分が文学を語れる人間ではない(母の漫画も掲載しているし)と、重々承知しているものの、せっかくの機会なので充実した時間に出来ればと思う。※文学フリマWEBカタログ『ペインフル』へ
きっと多くの素敵な本が並ぶだろう。
古着屋をめぐるように、一点ものの自分のためだけにあると感じるようなそんな出会いが多くの方にあればと願う。そのたくさんの玉石の中で、拙作にも目を向けていただければとてもとても嬉しく思う。
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それでは、どうぞ当日お越しいただければ幸いです。
地獄の今を少しばかり豊かにしてくれるものが、本と音楽と、コーヒーと猫とラジオだとわたしは思っています(案外要素が多い)。
◼️母娘の合同誌『ペインプル』作品紹介
母・漫画『依子の夏』
娘・小説『PAIN』
またわたしが、本作に向かうにあたって綴ったエッセイがあります。
「カクヨム」の投稿企画で、ありがたいことに受賞作に選出いただきました。よければそちらもお読みいただけると嬉しいです。
市川沙央選出いただいた『何者でも何色でも』が拙作となります。
そんなこんなで、初参加となりますがどうぞよろしくお願いいたします。