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『MEN 同じ顔の男たち』考察&レビュー ~若干のモヤモヤを添えて~

※この記事には、『MEN 同じ顔の男たち』という映画のネタバレが含まれます。ストーリー・展開については極力触れませんが、根本的なテーマとそれにまつわる考察(妄想?)をがっつりしています。また、特に女性にとっては、あまりよい気持ちにはならないであろう内容・表現を含みます。鑑賞予定のかた、不安に思われるかたはご注意ください。

はじめに


『MEN 同じ顔の男たち』という映画を上映初日に観てきた。

 ずっと気になっていた映画だったのだ。日本語版の広報twitterアカウントがつくられる以前、製作会社であるA24のtwitterアカウントで字幕もなにもついていない最初期のPVを観て以来ずっと気になっていたから、わりとちゃんと「ずっと気になっていた」と表現しても許されそうなくらいの長期に渡って気にしていたほうだと自負している。
 日本での上映が決まってからはYouTube広告でPVが差し込まれるたびスキップせずに眺めていたし、いつもならなんだかんだ上映期間を逃すタイプのものぐさである私が前夜にチケットをネット購入して初日に観にいったのだから、その「ずっと気になっていた」レベルをなんとなくお察しいただけるのではないかと思う。

 さて、そんな「ずっと気になっていた」映画の感想であるが、正直、なんと言えばいいのかものすごく悩んでいる。ホラー要素はしっかりあったし、ところどころの雰囲気もとてもよかった(地元や過去に訪れたことのある場所に似ている風景が要所要所にあったので、今後再訪する際は不必要にびくびくしてしまう予感がある)。怖がっていいのか笑っていいのかわからない場面もあったが、総合的な完成度としては決して低くないのではないかと思う。クリーチャー系のグロテスク表現が好きな一定の層にも刺さりそうだ。

 しかし、なんというか──簡単にいえば、なんとなくもやもやするのだ。手放しで「めちゃおもしろい映画を観た!」と言い切れない、個人的なもやもやがずっと残っている。

 そしてこのモヤモヤはおそらく、私自身の創作物に対する嗜好や指向に起因するものだという自覚がある。具体的にいえば、私は女性性・男性性をはじめとする性別、そしてそれに付随する苦痛や葛藤をテーマにした創作全般があまり好みではなく、そのテーマに触れることに大きな抵抗感を持っている。恐らくというかほぼ間違いなく、私が『MEN 同じ顔の男たち』に持った「もやもや」の大半は、その抵抗感に振り回された結果のものだと思うのだ。

 そうした自分の感情が前面に出てしまったがために、正直なところいまの私は、映画のクオリティがいかほどだったのか、展開や演出に難はなかったのかといった客観的要素が、ほとんどわからない状態になっている。だから感想にものすごく悩むのだ。映画それ自体のクオリティに向き合えていない気がするのである。

 前置きが長くなったが、前述のような経緯より、この文章はあくまで、私自身のモヤモヤを発散することが第一目的となっている。「映画を観て考えた・感じたことを整理する」という記事の性質上、本作品に関する私なりの考察(というより妄想?)が多分に含まれるが、恐らくそれらは読者・観客の皆様に新たな視点や気付きをもたらすものではない(たぶんこの作品は、比較的考察がしやすい部類の映画である。たいていの観客が同じような結論に辿り着くのではなかろうか)。
 また、パンフレットや関連記事も一切読んでいないので、もしかすると製作側からすでに明確な答えが与えられていることに対して、ひとりでねちねち捏ね回しているかもしれない。無責任で申し訳ないが、そのあたりをどうかご了承願いたい。そしてもし叶うなら、すでにこの作品を鑑賞したひと、これから鑑賞するひとの、「他者」の感想を聞きたいな、と思う。

 あともうひとつ目的を挙げるとすれば、「思ってたんとなんか違かった」という私のような感想を持つひとを若干数でも減らせたら、という思いもある。
 私が本作を鑑賞した回、私の一列前に三人組の女子高生が座っていた。あまりホラー映画、そもそも映画館での映画鑑賞に慣れていないのだろうな、という微笑ましい三人連れであり、過去に『ミッドサマー』で友人関係を壊しかけた私は「A24のホラーを友だちと観るのは悪手ですよ!!」などと内心思っていたのだが、案の定上映終了後の彼女たちの雰囲気はお世辞にもよいとはいえなかった。ひとりなどは「うちが観たいって言ったせいで……ほんとごめんね……」と謝っている始末で、似たような状況に憶えがある私はなんとも歯痒い気持ちになったのだ。
 これはなんとかするしかあるまい。私ごときの力などたかが知れているが、せめて「A24のホラーはできるだけ個人で観るべき」という認識を少しでも広めたい。あの女子高生たちのような状況に陥るのは、本人たちにも、作品にとっても避けるべきである。「ネタバレを積極的に踏みレビューを確認してから映画を観る派」の方々に向けて、この文章が少しでも有益な情報をもたらすことを祈っている。

 ……まあ、いろいろつらつら書いたけれど、つまるところ久々に、書かないとやってられない気分だったのだ。


あらすじ


夫の死を目の前で目撃してしまったハーパー(ジェシー・バックリー)は 心の傷を癒すため、イギリスの田舎街を訪れる。
そこで待っていたのは 豪華なカントリーハウスの管理人ジェフリー(ロリー・キニア)。
ハーパーが街へ出かけると少年、牧師、そして警察官など 出会う男たちが 管理人のジェフリーと全く同じ顔であることに気づく。
街に住む同じ顔の男たち、廃トンネルからついてくる謎の影、木から大量に落ちるりんご、そしてフラッシュバックする夫の死。
不穏な出来事が連鎖し、“得体の知れない恐怖”が徐々に正体を現し始めるー。

『MEN 同じ顔の男たち』オフィシャルサイト より

▽『MEN 同じ顔の男たち』オフィシャルサイト

▽『MEN 同じ顔の男たち』本予告(YouTube)


 今後具体的なストーリー展開には触れる予定はないが(よって以降、未鑑賞のかたにとっては非常に不親切な書き方になっていると思われる。改めてご了承いただきたい)、ここに一点だけ付け加えておきたいのが、ハーパーの夫・ジェームズ(パーパ・エッシードゥ)について

 ジェームズの死の間際、ハーパーは彼と離婚をめぐって激烈な口論を交わしているのだが、そのやりとりのなかでジェームズは、モラル・ハラスメントを思わせる気質を有していたことが匂わされる。ジェームズはハーパーへ「離婚するなら自殺してやる」といった旨の言葉を投げかけ、さらに「なぜ自分が被害者のような顔をしているんだ(意訳)」と詰め寄るのである。その後口論はさらに激化していくのだが、ジェームズが命を落としたのはその直後のことであった。

 なぜハーパーが離婚を切り出したのかについては、本編中では明らかにされていない。ふたりの夫婦生活についても、離婚をめぐる口論と夫の死の場面のほかには、一切、まったく、明確な情報は与えられない。そのため、この離婚の原因がジェームズの気質に端を発するものであったのか、それともジェームズのいうようにハーパーになんらかの原因があったのかはわからないのである。この点が、観客のハーパーに対するイメージを固定させない、おもしろい仕組みになっていると個人的には感ずる。


考察(という名の妄想)


 端的にいえば、恐らくこの映画は、女性性や生殖、異性への固定観念や嫌悪感が根底にあるのではなかろうか。と、私は考えている。もしかしたらすでに、「はじめに」の記述からお察しのかたもおられたかもしれない。以下大きく二点に分けて、そう考える根拠を示していきたい。

①女性性と生殖


 まず第一に指摘しなければならないのは、この作品に現れる「女性性」、特に「生殖」を想起させるモチーフの多さである。鑑賞したひとの九分九厘は同じことを思うのではないか。そして間違いなく、女子高生たちの朗らかな雰囲気に罅を入れた最大の原因は、これらの頻発するモチーフ、そして直截的な描写の数々であろう。

 暗喩としては、わかりやすいところでいえば屋敷に生えている林檎の木、それからその林檎を食べてしまうハーパーあたりだろうか。私は神話や宗教に関してまったくの無知であるが、そんな私でも、これらが「アダムとイヴ」のエピソードを示しているのだろうな、と察しが付く。
 若干わかりづらいところでいえば、森のなかにあるトンネルがそうだろう。川端康成の小説『雪国』に関して、冒頭に抜ける「トンネル」は女性器・産道の暗喩なのではないか、という説がある(らしい)くらいだから、そう的外れでもないと思う。実際、ハーパーが最初の「異常」と遭遇するのはそのトンネルにおいてである。トンネルの向こう側から謎の人影が現れ、ハーパーを猛スピードで追いかけてくるのだ。

 直截描写はもう、五万とある。というか後半はほぼそれしかないといっても過言ではない(過言だったらすみません)。教会に置かれた石のレリーフは女性器を強調するようなデザインであり(なんらかの神話・説話が根底にあると思われるが、私にはわからなかった。有識者のかたはぜひ教えてください)、ラストのほうはもう、妊娠、出産、妊娠、出産、みたいな映像ラッシュである(このあたりがクリーチャー系の映像が好きな層に刺さるかもしれない所以である)。正直私はここで「キショ……」と思ってしまった。かなり強烈な、ひとを選ぶシーンなので注意されたい。

 ここで注意したいのが、こうしたモチーフが表すのがあくまで「生殖」であり、恐らく性交自体ではない点である。
 というのも、こうしたモチーフと同時に、作中には「植物の種子」がたびたび登場する。タンポポに見られるような、いわゆる綿毛の状態の種子だ。ハーパーがその種子を吸い込んでしまう場面は印象的だが、それ以外にも映像のなかに、森の中で腐敗しつつあるシカの死骸へ、飛んできた綿毛が落ちるという謎のカットも差し込まれる。その後、死骸にはウジが湧き、自然の摂理に従って分解がなされていると示されることから、生と死の循環、そして新たな生の芽生えが表されているものと考えられるのである。

 そしてもうひとつ気になったのが、冒頭で管理人の口から発せられる、「流す」という意味深な表現である。浴室で水回りに関する説明をしている際に管理人は、女性は特に“流す”ときは気を付けて、浄化槽に限界があるから、と半笑いで言う。「流す」という単語が示すものは明確には言及されないが、文脈としてはおそらく、堕胎や流産を意味しているのではないだろうか。当初は私自身「……いやいや、深読みしすぎだよな~」と思っていたが、その後登場する直截的な映像の数々を踏まえると、いまとなってはそうとしか思えなくなってしまった。

(もしかしたら、もともとの単語の意味合いに注目すれば、よりはっきりしたことが言えるのかもしれない。私は字幕を追うことに必死だったので、もしなんと言っていたかご存知の方はぜひ教えてください。)


②異性への固定観念・嫌悪感


 異性への固定観念、それから嫌悪感は、ハーパーと、ハーパーが出会う「同じ顔の男たち」のやりとりから推察することができよう。

(余談だが、私は昔からひとの顔を判別するのが苦手である。現実でも映画でも同様だが顕著なのは特に洋画で、馴染みのない顔の骨格のせいか、キャラクターの判別ができずストーリーを追えなくなった経験も一度や二度ではない。実は今作でもそのバッドスキルを発動してしまい、恥ずかしながら「同じ顔の男たち」がほんとうに同じ顔をしているのかわからない、という致命的な問題に終始苛まれた。わりとちゃんと別人に見えるけど、ほんとに同じ顔してる? 違う顔の男たちでは? と思った場面が多々ある。たぶん私は髪型と声と身長でしかキャラクターを判別できないのだ。ほかの観客の方々にはちゃんと同じ顔に見えていたのかも気になるところである。)


 それぞれの男たちは、なんというか、それぞれの方面で大変デリカシーがない。屋敷の管理人の男はあまりに慣れ慣れしく(これは「流す」発言からも窺えよう)、村の少年は初対面にもかかわらずハーパーを「クソ女」呼ばわりし(もちろん気心が知れていようが言っていい台詞ではない)、教会の司祭はセクシャル・ハラスメントの極みのような言動を繰り返す(個人的にはこの司祭にも「キショ……」となってしまったが、もちろん「キショ……」も人間に対して言っていい台詞ではない)。
 それに対し、ハーパーはしばしば感情的な態度で接し、彼らに対する軽蔑の感情を隠さない。彼女が折々で見せる、怒りや恐怖の感情が一周回ってしまったような、あまりに冷たい視線は非常に印象的である。ついには彼女自身、村の男性たちに対し「クソ男ども(意訳)」と聞こえよがしに吐き捨てさえする。


 そして、なによりも重要なのが、村の「男たち」が全員「同じ顔」をしている、という点である(女性の登場人物である警察官と友人はちゃんと別人の顔をしている。たぶん。もう自分の認知能力が信用できない)。
 この重大な異常について個人的に考えているのが、公式あらすじにある「ハーパーが(中略)出会う男たちが 管理人のジェフリーと全く同じ顔であることに気づく」という文言は、実際には表現として不適切なのではないか、という点である。

 なぜなら、確かに村の男たちは全員同じ顔をしているものの、ハーパーはそれに対して強い疑問を呈している様子がないのだ。同じ顔してません? 兄弟ですか? などと彼らに訊ねる様子もない。また(正直これは自分の記憶が若干あやふやなので事実と異なっていたら指摘してほしいのだが)、しばしば友人とビデオ通話をしながら身の回りで起きる事件について話しているにもかかわらず、本来非常に大きな異常であるはずの「同じ顔の男たち」についてはさして問題にしていないのである。
 これがなにを意味しているのか。つまり、ハーパーにとって「男性の顔が全員同じに見える」ことは、それほど異常事態ではないのである。「男性の顔が全員同じに見える」という状況は「現象」ではなく、ハーパーの「認識」の問題なのではないだろうか


 ハーパーは、普段から「男性が全員同じ顔に見えている」のではないか


 言い方を変えれば、恐らくハーパーにとって男性は、総じて「軽蔑の対象」なのだ。彼女の思う「男性」はみなデリカシーを欠いており、自分の心身を攻撃する存在で、それ以外に特筆すべきところもない。そこに管理人個人、少年個人、司祭個人の個性・キャラクターを認めていないのである。
 先述した生殖に関して、それにまつわる女性器、性交等が嫌悪感を煽るような形で表現されている点を踏まえても、そしてハーパーが村の男性たちに投げかけられる言葉の数々を考慮しても、ハーパー自身が生殖に対して決してよい感情を持っていないことは察せられる。それは恐らく、彼女の男性に対する嫌悪感、ないしは敵対心に端を発するものであり、彼女のそうした男性への感情が、「男性」という性別で他者をくくる彼女の観念を形成しているのではないだろうか。

(作中において、この「異性」というラベルで他者をくくる言動は、ハーパーだけにいえるものではないような気がしている。ハーパーの友人も、そして村の男性たちも、そのひと個人ではなく属性で他者をくくろうとするような節が、鑑賞中ところどころで見られるためだ。特にハーパーが顕著に、焦点を当てる形で描かれたというだけで、現実にも、私自身にもいえる、危うさをはらんだ意識・言動だと反省したりもする。そしてハーパーがそうした観念を形成するに至った理由についても、作中表現はもちろん、現実世界を考慮しても、切実に理解できる気がする。)


 ……いま思えば、そもそもタイトルからして『MEN』なのだ。ご存知のとおり、英語で「男性」の「複数形」である。「同じ顔の男たち」の映画なのだ。本作を取り巻く様々な要素は(彼女自身が自覚しているかはわからないが)、ハーパーの「男性は総じて、個人を識別するにも値しない」という、心のうちを象徴しているのではないだろうか。


③離婚の「原因」はなんなのか?


 さて、ここまで普段使わないような難しい言葉を使ってつらつら述べてきたのですでにいろいろやらかしていそうで不安極まりないのだが、以上の考察もどきを踏まえ、いよいよほんとうに妄想の領域の話をしたい。

 ハーパーとジェームズの離婚の原因はなんだったのだろう?


 何度も繰り返すが、あくまでここからは妄想の領域である。私は、ふたりの決別の原因は、生殖にまつわる意見の不一致、あるいは相互不理解だったと考えている。


 ハーパーとジェームズ、ふたりのとある対話で、ジェームズがハーパーに対し、「愛が欲しい」と口にするシーンが印象に残っている。ハーパーはそれに答えない。ふたりの関係性がすでに修復不可能であることが伝わってくるようなどこか寂しいシーンであるが、ではここでジェームズの言っている「愛」とは、具体的にどのようなものを指すのかが気になってくる。


 先程の考察もどきでも述べたとおり、ハーパーにとって男性は総じて軽蔑すべき存在であり、同時に生殖は忌まわしいものである(恐らくその感情は、作中では描かれなかった、彼女のこれまでの人生における不快な経験の蓄積から生じたものだったのだろう)。
 恐らくその感情は、結婚を経て夫となったジェームズという「男性」に対しても、拭い去れなかったのではないか。ジェームズのモラル・ハラスメント的な気質も、もしかすると彼女に「男性」への嫌悪感・敵対心をより募らせたかもしれない。


 そして、ここがいちばんの妄想ポイントなのだが、ジェームズにとっては「愛」の象徴が、ふたりのあいだにできる「子ども」だったのではないか。ジェームズの死を起因に引き起こされ、ハーパーを徹底的に追い詰めていく恐怖体験の数々が、おぞましいまでに妊娠・出産をモチーフにしていることからも、ジェームズという存在と妊娠・出産という行為の強い結びつきを感じさせよう。

 しかしハーパーにとっては、生殖と愛はイコールではない。恐らくハーパーは子を為すことを拒んだか、否定的な立場を取り続けたのではないか。ゆえにジェームズは彼のなかの愛情の基準で以て、ハーパーからの「愛」を受け取れなかったと認識した。そこから夫婦間の亀裂は深まり、離婚への口論へ発展していき──……。


 ハーパーが男性を個として認識しないように、ジェームズも自身の考える「愛」の観念(あるいは「女性像」ともいえるのかもしれない)を肥大化させるのみで、ハーパー個人の意志を理解しようとしなかったのではないだろうか。その一方的な執着心や押し付けが、ハーパーのなかの男性への軽蔑と結びついて、「同じ顔の男たちによる『生殖』の恐怖」を生んだのではないか──というのが、私個人の考察未満の妄想である。
 一連の異常が一体誰から始まって、どこからが異常だったのか、考え始めるとこんがらがってくるところではあるが、ホラー作品における恐怖や異常に理屈を求めるのは野暮というものだろうし、ここでは考察の対象外としたい。


おわりに(なぜ私はモヤモヤしているんだ?)


 以上、長々と乱文を書き連ねてきた。こうしてみるとかなり考察のしがいがある、なかなか興味深い映画だったような気がしてくる。繰り返すように、完成度自体は決して低くないと思うのだ。不気味さの演出にも手加減がなかったし、視覚聴覚どちらからも恐怖を感じられる、製作陣のこだわりが感じられる作品だった。

 ここで当初の問題に立ち返ってみる。そもそもなぜ私は、こんなにモヤモヤを引きずっているのだろう?


 非常に幼稚な結論だが、やはり「好きではなかった」、この一点に尽きるのだろう。個人的な嗜好と指向だが、最重要の理由としてはこれに勝るものはなかろう。


 いちばんの「好きではなかった」理由はたぶん、その直截的な表現だ。異性(この場合は女性から男性)への嫌悪感や生殖からくる恐怖、というテーマはわかる。ホラー映画という「恐怖」をエンターテインメントへ昇華するジャンルにおいて、強烈な映像をつくりだしたいという熱意も、非常にわかる。けれど、それらの前振りとして、あそこまで執拗に女性性のモチーフを露悪的な形で示す必要があったのかという点が、私にとって疑問なのだと思う。

 私は個人的な信条として、不明瞭・婉曲表現を至上として生きている趣味創作人(そうさくんちゅ)であるので、なんだか表現が直截的すぎるよな、というのが、頭の片隅にずっと引っ掛かっていた。作品が内包しているテーマを表現するにしても、あそこまで前面に押し出して、執拗に繰り返す必要はなかったのではないか、とどうしても思ってしまうのだ。

 製作陣がなにを意図して、観客にその意図をどこまで感じ取ってほしかったのかはわからない。けれど、もし仮に「女性が感じている、押し付けられる生殖に対する恐怖・嫌悪感」を伝えることを意図していたのだとしたら、その目論見はあまりうまくいっていないのではないか。
 たぶん女性の観客は多大な不快感と嫌悪感に苛まれただろうし(もしかすると過去の厭な記憶を思い出したひともいたかもしれない)、男性の観客は女性の感じている不快感を知る・思いを馳せる以前に、視覚的グロテスクさというエンタメ要素に感情が上書きされてしまったのではないかという気がする。『イレイザー・ヘッド』並みに暗喩を散りばめろとは言えないけれど、もう少し生理的なえぐみを間引いたほうが、製作陣の意図について思いを巡らす脳のゆとりが、観客にも生まれたのではないかと思うのだ。

 もちろん、もともと私が「性別に関する苦痛と葛藤」についての作品が苦手、というのが大きな原因になっているのは間違いない。けれどたぶん、あと少しだけ表現の仕方が違ったなら、もう少し冷静に映画を楽しめたかもしれないという気がしている。
 最終的にやっぱり個人の嗜好と指向に帰着してしまうのだが、公開を楽しみに待っていた過去の自分とあの女子高生たちのことを考えると、どうしてもそんな、もやついた気持ちが渦巻いてしまうのである。


 でもああいう嫌悪感を煽るような表現があったからこそきちんと考察ができたのかもしれないし、エンターテインメントと根深い問題との絡め方はそもそも難しいものだし……と思い悩むところはまだまだたくさんあるが、以上で私の浅~い考察もどきと、少しの愚痴は終わりである。
 結局最後は個人の意見にまみれたお気持ち表明で終わってしまい誠に申し訳ない限りであるが、「ネタバレを積極的に踏みレビューを確認してから映画を観る派」の方々、そしてすでに『MEN 同じ顔の男たち』を鑑賞した方々にとって、少しでも有益な内容を含んでいればいいなと心から願っている。
 それから、『MEN 同じ顔の男たち』を友だちと観にいこうと思っているすべての学生にとって、その行為の恐ろしさの一端を理解してもらえる一助になっていれば、これに勝るよろこびはない。R-15だから中学生は観ちゃだめである

(だがしかし、やばめの映画を観てなおその後メシを食って盛り上がれる存在というのは、まじのがちで一生モノの宝物なので大切すべきである。いちばんの親友と『セルビアン・フィルム』を観たあとびっくりドンキーで感想を言い合った私が言うんだから間違いないぞ!)


 最後になるが、視覚的インパクトや恐怖演出、そして主演のジェシー・バックリーをはじめ俳優たちの演技も非常に観応えのある『MEN 同じ顔の男たち』は、12月9日(金)より全国の映画館で上映中である。気になる方はぜひ、劇場に足を運んでみてください。

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