全てが良きこと。どんな暇つぶしにするかは自分次第。

どうあっても、これまでの人生での出来事は「全て良きこと」の連続なのだ。

過去あったできごとをくよくよ考えたところで、すでに終わったことをテイク2🎬出来ない。
それはそれで、ただ受け取り方を変えるんだよ、とそんなノウハウはそこら辺にいっぱいあるよね。

それにまず気づくことが出来て、
そのあと、相手の立場になって考えた時に「はっ」となれる。

これの最たるは「親になる」だねー。
ただし「得られた」と感じるまではこれまた長い年月必要だけどね。

時々、あーって思うけど、子育て中って寄り道や立ち止まりが出来ない。

だから、噛み締めてる時間はほぼ無かったな。

でもね、親が終わる時もあってね、その時からじわじわって見え始めるのね。

親が終わるってね、保護の必要がなくなるってこと。
つまり、親がすることって「保護」なんだ。

護って保つ。

社会に少しずつ放ちながら、旅立ちを見極めて自立・自律を自覚させる。

これのバランスがむずいのだろうな。
このバランスのことを中庸というのではなかろうか。

15歳元服。
なぜか、わたしはここを意識していた。
きづいてもなかったけど、子育て中何度も「中学2年生3年生で大人」と定義する感覚があった。

と言うことは、大人は自立・自律しているのが定義になるね。

かく言ううずまきは出来ているのか?ってなことになるが、出来ているから「よし」、出来てないから「悪し」という基準も何にも持ち合わせていない。

それって必要?
誰かから見た「基準」ほど、どうでも良いものはない。

関係性の問題で、家族という単位や、関わり合うもの達の間で成り立っていればよいのだ。

わたしの中ではそれらは全然穏やかではなく、常に「変えてやる」「わたしはこんあもんじゃない」と文句ぶちまけ、イラついていた。

前に前に
先に先に

随分と、こどもたちを追い詰めたかも知れないな。

と、いう自分の中にある「罪悪感」が記憶にあって、全てがダメ母であったと勝手に思い込んでるのだ。

自分のこども時分のこともそうだ。
思い込んだ一つが「全てそうなんだ」とまた思い込んでいる。

つまり、思い込みって何重にも存在しているのだ。
だから、こじれるのだよ。
上辺だけすくって外して良い気分になっているのではなく、その奥にあるものと出逢うことで初めてほどけるのだ。

大体、記憶は「感情」だ。

で、思い込み全てが悪さをするもんでもない。
良い思い込み?というと、その基準はなんだ?になるが笑

良いか悪いかは、全部自分が判断するもので、そのせいにしているうちは判断すら全て悪いものでしかないのだ。

二元論を俯瞰し、良い悪いを思い込んでる自分を見つけるところが「自分と向き合う」ことのスタートだったと思われるので、非常に大切な箇所かもね。

つらつらと書いたが、それら全てを引っくるめて「全て良きこと」だったのだ笑

ダメだと思い込んだことも、必ずひっくり返って「あの時のおかげ」になる。
そこに気づくための出来事だったんだ、そして、今の自分を形成するために必要な出来事だったんだって、なる。

ま、そう思い込み直すことで「自己肯定」しようとする「癖」のようなものかも知れないね。

どっちにしろ、生きてる訳で、、、。
その時その時、精一杯言いたいこと言って泣いて叫んで引きこもっていいんじゃない?ってこと。

それが全部「自己表現」なんだよ。

我慢してきた人も、ずっと我慢が自己表現かもしれない。
我慢が人に見えるならね。

でも、見えるのかな?
わたしは結構自由に生きてるつもりなのに、娘からの一年に一回のメッセージが「楽しく自由にね」とある。

そう見えてないのか?


あ、、、
これだよ笑。

そう言われたりすると「違うのか?」と受け取ってしまう「癖」!!

良く見るとそのメッセージは
「今年も楽しく自由に!」とあった。

「も」を見逃し、そうでないから言われるんだって簡単に受け取る、なうずまき(笑)

この現象が「非モテ」なんだ(笑)

まとめると(笑)、
「思い込みは何重にもあって、一足飛びに誰かのノウハウやったからと言って簡単に脱ぎ捨てられたりしないよ」ってこと。

じっくりと、腰を据えて笑、自分と向き合ってこそ。

その先には非モテすら可愛く見える視点を手に入れられる自分が居る(笑)

なんと、素敵な暇つぶしだったわ(笑)
人生ってほんと暇つぶしでしかない。
どんな暇つぶしにするかは自分次第。

さて。
2024年のうずまきは
暇に潰されるのか?
暇を潰すのか?

どっちでしょうか?

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