「やってて気持ちよくなること」やってますか?
おはよう。
みんな、今、気持ち良い?
気持ちよくなんかしてる?
気分も体調も含めてね。
超ご機嫌でいてる?
ご機嫌でいようとするとかじゃなくてー
気分良くしようとするんでもなくてー
健康でいようと何かを選択するのでもなくてー
ただただ、いま心地いい!!!
って感覚ですわ。
言語化するのむずいけど、察して(笑)
本当はあれやりたいけど、これやってからね!
本当は嫌やけど、とにかく約束やし。
本当はこっちが好きやけど、遠慮する立場やしー。
もうこんなことに日常過ぎてわからんわ!!😡
って感じやよね(笑)
自分優先するのって、悪いことやと信じてるから絶対にせーへん系(笑)
駄菓子菓子。
これら「現象」だけを見てしまうと、そういう思考にとらわれてしまってるだけなことに気がついたのだ。
本来、正しく「骨」に乗った感覚で立てば、余計な力は要らなくて、どこにも歪は生まれず、揺らぎの中で緩んだ状態で「心地よくいられる」はずなのだ。
すると、大変に「心地よく、超ご機嫌」なわけだ。
ご機嫌にしようと思わなくても、そもそもご機嫌がデフォルトなのだから。
揺らぎの中で立てているとなると、歩きもそう。
特段フォームがどうのこうの関係なく、
「軸の重心移動」でなり、気持ちよくなるわけよ。
わたし、日々めっちゃんこ楽しく「歩くことを目的」として歩いてるわけ。
もう、2か月以上経過しましたわ。
全くの義務感なし、誰に報告したいわけでもないし(笑)
死ぬまで続くよ。
「続ける」んじゃなくて、続くの。わかるかな?(笑)
だってね、自分の身体がちょっとずつでも何かを掴んで変化していくのが楽しいのよ。
一歩進むたびに、向こう側の「新しいわたし」に出会えるんだよ。
誰かに言われてやるもんじゃなし
ほめて欲しいって承認欲求もない(笑)
全くもって、歩けば歩くほど「気持ちよくなる」のだから
辞められない!!!!!が正しい言い方かも。
これまで、継続できないという自分を見つめ続けてきた。
そしてそれを責めても来た。
どうしてわたしは普通の人が「我慢してやること」が我慢できないのか?!
と、出来ない自分を責めてきた、自覚しながら無自覚にやり続けてることの一つだよね。
気づいてるけど、見て見ぬふり的な案件よね(笑)
でも、どうやら、どれも義務感や責任感で背負っていて、外側のアウターマッスルばかりに気を取られてカッチカチにして、緊張状態でもちろんそれらは楽しくなくて「よっこいしょ」と頑張らないと出来ないから、できなかったんだって理解に到達したのだ。
つまり
どれも楽しくて気持ちよくて、超ご機嫌でやってなかったってことね。
もう、それって不自然でしかないよね。
わたしって植物なんよねーと言いつつも、不自然に生えてたよ。。。。
どんなことも、本当は楽しくなくて、成り行きでこうなってしまったり自分を欺いて「これも楽しいと思えば楽しくなるさ!」と説得納得させて「無理やりご機嫌」を作って取り組んできたんだわ。
いま、単純に「noteを書く」と言うことで考えてみようか。
あ、実はそれがスタートなんだわ。
日常でさ、あれ書こう、これネターって思いながらメモしたり頭の中で文章こねくってたりしない?
そんな自分の脳みそがちょっと嫌で、なんで脳内「バーチャルの誰か」に聞いてもらいたいになってんのさ!💢とどこかで感じててさ。
書きたいと思っているのに、「書かなくては」となってiPadを開けるという運びだったわけ。
で。
書いてて「気持ちいい」って思わないから「義務感」出てくるんだって気づいたわけ。
おおおおおおおおおお。
これは目的がずれているから起きる現象ですわ。
抽象度が低いというやつだね(笑)
そう、歩くことが目的で歩いているのだが、これは「超ご機嫌になるから」なのだ。
書くことも「超ご機嫌」になるのだとしたら
もっとあふれるように書けちゃうよね(笑)
気づいたら本になってた(笑)みたいに。
オリンピック目指す人とか
絵を描く人とか
音楽とか
踊りとか、、、、、
どれもきっと「やめられないほど、気持ちいい」からやれてんじゃないかな。
だってね、わたし、あちこちの骨が動き始めたらね
動きそのものが美しくなってきてさー
気づいたら「舞ってる」のよ(笑)
あの神社で自由に舞う人見てて「分からん」と思って見ていたが
どうやらそういうことなのかもしれんなーと見えてきたわけさ。
おもしろい。
実に興味深い。
わたしの感覚そのものが奥深くて面白い。
自分に全集中すると言うことが
「自分を知る」ことに繋がり、研究が進むのだ(笑)
と言うことで、自分研究誌をつらつらと書くことができたうずまきは
結構にご機嫌なのだ(笑)
なので、世間でよく言うあれですが
「自分が心地いいと思うことをやりましょう」
と言う言葉で締めくくります(笑)