思い込みの思い込み。やめることはこれだ!
2023年3月30日に下書きしていた記事。
冒頭の文章は消してしまった💧
本文はそのままでアップします。
その作業は2024年1月8日。
【思い込みの思い込み。やめることはこれだ!】はこれだ
結論を先に言うと、やめることは「楽になろうとする思考」と「自分らしくあろうとする思考」の二つ。これについて解説していくことにしよう。
1、まず、自分が「生きづらい」ときづいたこと
ついこないだ、この3月の初めのころ、つまり30日ほど前に「生きづらい」という言葉が自分に当てはまるんじゃないか?と気づいたのだ。
その頃のことはここにて。
自分がADHD傾向を持っていることで、生きづらいのだ!
と気づく前は「自分が生きづらい」とは思っていなかった。もちろんだけどね。
その「生きづらい」という言葉は巷にあふれていて目にすることも耳に聞くことも多かった、でも、自分に当てはまるとは思っていなかった。
しかし、ふとある日、もしかして当てはまるかも?と思ったら、ADHDにたどり着いたのだ。
その時「ああ、そうか、わたしは生きづらいんだ、それはADHDというのを持っているからなんだ。わたしのせいじゃないんだ、前頭葉の血流がよくなくって引き起こされてることなんだ、わーい」ってもろ手を挙げてその気づきを喜んで自認したのだ。
わたし的には目の前が明るくなって、世界が変わった瞬間だった。
2、公表した後の違和感からの観念
そんなもろ手を挙げて大歓迎の状態で公表したのだが、周囲の反応はあれれだった。
「その病気のせいにして、いろんなことすべてを”許せ”と言うてるんか」っていうエネルギーを感じるのだ。
たぶん、気のせいではない。ま、わたし自身が思っているからということもあるだろう。
大喜びで公表して、そんなつもりはないと突っぱねていたが、よくよく引いて感じてみたらば、「そうね、そう言ってるよねわたし」と観念した。
その観念した後に何が起きたかというと、、、
3、もしかしてそれは本当なのか?という問いのおかげで霧が晴れた
もしかして、世の中で起きていること、ささやかれてることって本当なんだろうか?うん?思わせられてるんじゃないか?って思考になったのだ。
これまでもちょくちょく感じてきたことだったが、すぐに忘れるので、今回のこの「生きづらい」に関してはそこまで至っていなかったのだ。
本当なのか?と立ち止まったタイミングで、そもそも自分は一致していなかったと思っていたことも、どうやらずれていなかったのではないだろうか?現象も起きて、もしかしなくても「わたしはわたしをまっしぐらに生きてきた」のだよ!という事実がだんだんと霧が晴れるかのように見えてきたのだ。
自己不一致に関しても「わたしはずれていると思い込んで」いたんじゃないかと感じられたおかげで、「生きづらい」と思っていることさえも「思い込み」かも知れないということにたどり着いたのだ。
4、思い込むことでのわたしのメリットはなんだ?
人は、なんだかんだとメリットのあることを必ず選択するものだ。
今回の思い込みのメリットはこれか!
「生きづらい」ということに決着させることだったのだ。
それって本当?と立ち止まれたおかげで、自分が選択しているのだという立ち返りが起きたのだ。
生きづらいって思ってなかったわたしが、いきづらいと気づいてみた。
そしてもろ手を挙げてみたけども、なんだか不協和音。
自己不一致に関しても「一致してるよ、一致してたよ-」と発覚していく。
人間も生き物なので、二十四節気の自然の暦通りに生きていて、3月なんて、うつうつする時期だから、なんとなく息が詰まる季節なんだと思うのだから自然の流れなのだと思うけれども、なんか意図的にみんながそっちのほうに向くようにしむけてないか?
って、そんな風に疑問に思えたのだ。
世の中に、そういう情報が垂れ流しになってて、みんなそっちむけーっていうカラクリがあって、それらがビジネスになっているんだとおもわれる。
まあ、そんな気付きになったのだ。
ってことは、わたしは今「生きづらい」ということで決着させていたけれど、これはまさに思い込み?思い込まされた?思い込んできた?
ま、いいんですけどね。そういう段階なだけで、通り道ですよね。
5、生きづらかったのは、完全な思い込みだったのか?
いや、自分が生きづらかったのは正真正銘なんですよ。
人付き合い出来へんし、継続も出来へんし。
面接は通るけど、その後続かないってね、そんな自分をダメだダメだ、ポンコツでポンコツでどうしようもなくポンコツでと思い続け、それを直さねばならないと思い続けてきたんですよ。
出来ない自分は自分じゃないんだ、普通にできる人、標準に一生懸命にあわないといけないんだって生きてきた。そりゃしんどかったですよ。
出来ないことをできるように、、、できない自分を出来損ないで欠陥品だと思ってきた。
6、脳が障害持ちだからって決着ですか?
出来ない理由を脳の欠陥によってなんだと出会ったけれど、ん?まさしくそうだとしても、そんなことは承知の助で生きてきたわけで、今更生きづらいとかいうワードをあてはめて、それになぞって生きるのはなんで?って大き違和感になったわけだ。
あれれー!!体の中から「ちがーう」「ちがーう」て、声が聞こえた。
昨日から、自分がやりたいことを誰にも邪魔されずにやるんだ!って鼻息荒かったけど、今すでに邪魔されてないやん(笑)邪魔さえもシャットアウトしたくせに(笑)そんなことも思い込みですらなくて。
頭の中ぐるぐるしているのも、もしかして自分のせいではなくて、ぐるぐるさせられているのかもしれないのだ。
こう書くと、人のせいだね。
それも含めて自分がくるくるしているのを楽しんでいるということなんだよ。
生きづらいということを何とかしようとしていた。
生きづらさから脱出したいと思っているってことは、言い換えると「楽になりたい」って思っているわけ。
楽になりたいっと思ってるということは、今の生きづらさが嫌だって言うてるんですよね。
ということは、今の自分が嫌だって言ってるわけですよね。
生きづらいってことを自分で演出しておいて嫌だって言うてるわけですよね。
欲しがっているくせに、嫌だと言ってる。矛盾してるわけ。
そういう状態になっているのでだ。
わたしは今の自分は満ち足りているとわかっている。
なのに、世の中の「生きづらい」って言葉を自分にあてはめてわざわざシンデレラになろうとしているのだ!
わたしかわいそうなの、助けてーって。
そういう心境にであって、あれ?わたし矛盾だらけじゃないか?と気づけたのだ。
7、「辞めること①」
「はい、辞めます」
何を?
「楽になろうとする」ことを「思考すること」をやめる。
これは、生きづらいことを延々とやるのだということではなく、
生きづらいってことも真実ではないんだってスタンス。
楽を目指すためには苦しんでる自分が必要になるからなんだということ。
なので、そんな自分は不必要なので、楽を目指すことをやめるのだ。
今すでに手に入れているのだよ。知っているくせに知らんぷりしてる。
そんなとこじゃないかなぁ(笑)
楽になろうとしなくてもいい。
楽になると求めてること自体、そうしている自分が「好き」なんだよ。
ま、そういうところが、ポンコツで、可愛いんだけどね。
楽になろうとする思考をやめる。
その欲望は間違った欲望なんだ、本当に自分が望んだものではないんだって気づきをする。
あっちいけというよりも、あらら、あったわね、みーつけたって感じ。
「取って出す」だけ。
とにかくそれを何とかしようとしないで、とにかく置いとく・愛でる・ふーん・可愛いってそんな感じ。
8、自分らしくあろうとする思考
同時に、自分らしくあろうと自分を探すことも不要なのだ笑
こう言ってしまうと、これまで一生懸命「自分探し」をしていた自分を全否定された気になってしまうよねー。
そう、ここなのだ。
結局「本当の自分がどこかにあるんだ!今の自分は本当の自分じゃないんだ!」と思うことですでに「自己否定」しているわけ。
流行りの「自己肯定感アップ」の逆の道をひたすら突っ走ってしるというわけ。
すでに、自分らしくある。
自分のポンコツも醜いところも全部を「あるよねー」と認めること。
これがまた、なかなか出来ないのだけど笑
実は何よりも近道がこれなんだ。
ただ、あると自認する。
9、まとめ
で、気づいてこれなかった自分を責めることしばしば。
それもいいさ。
また視点を過去に持っていってくよくよと変えられないと思い込んでいる記憶を脳内で再生し続けるのもあなたの人生。
気づいたとこからスタート。
過去は変えられます。
自分の思い込みに気づいたら、ね。
気づいたとこからスタート。
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2024年1月8日時点で加筆修正してます。
うずまき🌀くらげ