「生きる目的」の見つけ方
タイトル詐欺にならぬように努めますwww
そもそも「目的」をもって計画し行動することができなかった私。
目的なんてなによ!
なんで人に言われて設定せんなあかんのよ!😡
と思い続けてきた、アマノジャクがわたし。
それはなぜかというとー
目的の意味が分かっていなかったからだろうと思われる。
手段が目的に成り代わりすぎて
何を求めてやっているのかが、まったくわかっていないからだな。
その「そもそもの目的」が分かっていないことが問題と言えば問題なのだwwww
悩みありますか?
と聞かれて、初めて探し出す、、、みたいな。
なーんにも考えてこなかった。ん?どうかな?
手段と目的の関係が分かったおかげで
わたしの「生きる目的」がくっきりと浮かび上がったのだ。
だから、考えてこなかったわけではない。
むしろ、思考人間で哲学者。
余計な思考でぐるぐるしてきたって思う人の方が多いんでないかな。
でもね!
思考するって、これこそ「人生の人としての人生の楽しみ方」と思うのね。
「えー考え過ぎ」とか言う人ほど、結構考えてたりする気もするが、
思考のトンネルに入った人だからそのセリフになるんだと思う。
ま、どっちでもいい(笑)
トンネルに入るほど思考の罠にはまり(笑)
ぐるぐるとしてきたひとほど、ここから抜け出た時の喜びはひとしお。
その思考できるのは得意技で、その人に与えられた「素晴らしい能力」だとわたしは思うのだ。
大いに思考し、大いに悩み、ぐるぐるしてね(⋈◍>◡<◍)。✧♡って感じ。
その思考の果てに
自覚に出会って欲しい。
無自覚がいっぱいあって、自分はそれに沼ってることに気づくこと。
自覚の始まりは「こんなにもいっぱい無自覚があるんだ」っている自覚からだもん。
そして、歩くこと。
歩くことだけを目的とし歩く。
そうしたらなんと、素晴らしい瞑想状態に!
一歩一歩、足を前に動かすたびに「未来に向かうわたし」を感じ、
より、体と思考を別々にして「言葉」として気づいていく。
食についてもそうだ。
「食べない」と言う、現代において「大変に贅沢」な選択をし、得られる「気づき」は半端ない。
こんな、根本的な「動物」と言う「自然物」である「わたし」を認識したことがなかった!!と言うこれまた計り知れない大きな気づきを得られたのだ。
行動しなければ得られないこと。
全く
忘れすぎにもほどがある。
動物としての当たり前なことだよね。
食って、動いて、出すって。
わたしは「地球から生まれた生き物」だということ。
地球に依存し
食べ物に依存し
自律神経に支配されて生きている「自然物」であることを。
自力で何としてでも生きてやるって感覚でいたことに気づいたわたし。
いろんなメゾットがある。
いろんなことやってきた。
どれも中途半端だったかも。
ちょっとやっては「変化なんかしないじゃん、これも違うのか」的に感じ、そのメゾットのせいにしてきた。
でもね。、違うのだ。
ノウハウじゃないんだ。
誰かに言われたことを正しくやったからと言って見えるものではない。
何をやるにも「自分がどんな面持ちでそれに取り組むか」なんだ。
ここに「目的」がないおかげで「誰かのせい」で中途半端で投げ出すのだ。
そのノウハウは「手段」であり
その方法を使って、目的に到達することなのだ。
まるで、そのマスターに褒めて欲しいかのような言動を選択したり
ワークをこなすことが目的になっていたり
そもそも「目的」なんのよ?状態で迷子になり、お金も時間も散財したという結果になり「人のせい」で終わり、結局何も変わらないのだ。
なにかに取り組むときに
「何のため」をしっかりと考えることがとても大切。
駄菓子菓子!
その際の簡単に出てきた「目的」は実はフェイクだったりする!
(わたしの場合ね、手段と目的の関係が分かってなかったからね)
散りばめられた「エゴ的」な「目的」たち。
これらを「出して自覚」すらできなかったのだから、手前で沸いてきたとしても、それはそれで大切なことなのだ、が、これらの「ほぼ欲望」に猫騙しを食らっては「本当の目的」が分からないまま生きてきた。。。
で、この手前でごちゃごちゃしている「ほぼ欲望」たちを
しっかりと「認識」して「本当に欲しいのか?」と向き合っていく地道な作業が必要なのだ「淡々と聞く」作業(笑)
その時に、瞑想ウォーキングがとても有効だったわけだな。
まずもって「認識する」→「自覚」が大事ってこと。
認識せずにそれどうにかしようとしても
「何が?」の世界でまた手段が目的化していくのだ。
自己肯定と同じ意味になるのだが、
許しとか
受容とか
と言う言葉にも当てはまるよね。
この辺の認識が「晴れて」くると
あ?そもそも○○がわたしの最大の目的だったんじゃねーか!
嗚呼、すっかり忘れてた(;'∀')
と言うくっきりとしていて力強くて野太いものが湧いてくるのだよ。
実に「あっけらかん」と出てきた「生きる目的」に少々驚いたりしたけれど、それは誰かに教わったりするものではなく、地道に自分を「知り」「見る」「認識」すること、自分が行動してこそなんだってこと。
頂まで自分の足で登って
そこからの景色を自分の目で見る。
頂まで行くことが何よりも必要かなー
途中でいくら頂をイメージしても
それは「誰かの勝手なイメージ」でしかなくて
自分のものにはならない。
勝手なイメージでいるうちはやっぱり
何かしら迷い、覚悟がないままになるんだと思う。
自分の目で見て体験してこそ迷いがなくなるんだと思うね。
今回、21日間の頂に立てたからこそ、得るものも見えるものもビッグサイズ。
誰かの感想よりも、自分の体験だな(笑)
生きる目的とは
それこそ、生まれてきた目的。
生きていることこそが「事実」。
何かを得るには「覚悟」が必要。
何かに囚われているうちは
それをただ楽しむがいいwww
それも体験と言う宝物。
何やってても楽しい境地は
いつもあなたの隣に在る。
(笑)