「すごい人」への違和感
そう言われ、「すごい人」に会いにいくことが偶にある。
毎度のことながら違和感だらけでその時間を過ごしてしまった。
何が違和感だったのか。
何が違和感だったのか
すごい人が存在する事によって、すごい、すごくない、の基準が生み出されていること。
「すごい」フィルターって凄くて笑 その人の裏にある過去の考えや、感じている事、どういう経緯ですごくなったのかが見えなくなってしまうことがある。
そのすごい、というのが特に今までの積み上げていることであって、その「すごい」が更新されていない場合もある。
権力関係が生じていることに、権力者「すごい人」が自覚的でない場合、すごい人のすごさは、対話の邪魔になると感じた。
これは、同じ土俵で語り合えなさを感じることがあったためである。
これは、教育現場に限らず、教える教えられる関係がある時点で、こうなりうると思う。
「すごくない人」が盲目的である事。(その度合いは人による)
すごい人から得た情報を受けて、自分が何を考えて、どう感じたのかがあまりない場合が多かった。
結局、すごい人に任せて、その人について行けば良いとなっている場合も多かった。
例えば「すごい人」は、自分の人生に対して主体的であれと、説いているが「すごくない人」はその言葉を受動的に聞いている。結果的に、自分の人生をそのすごい人に任せ、受動的に生きているように見受けられた。
終わりに
その人の何がすごいのか、そしてその周りの人はどんな方々なのか、興味もあるし、知りたいし、紹介していただいたからには、何か得られるものや私から提示できるものはないかと思いながら、会いに行くのですが。
今の私は、1度会って気持ち悪さを感じると、もう一度会う気持ちが失せてしまう、背景を知ろうとは思えないのです。過去、出会った人みんなの背景を知ろうと、理解しようと謎に頑張ってたこともありました…
なるべく敬意を持って会いにいったり、その場に参加したりするのが理想的だとは思っています。疑ってかかるのは良くないなと。
消費者と、生産者、権力関係、、、なんか色んなものが繋がっているような気もしました。とにかく、違和感を感じて、ぞわぞわした時間を久しぶりに過ごしました。
追記
これからは紹介される理由を聞いてみることにしました。なぜ紹介しようと思ったのか?、今のところ2人に聞いてみたけど、何も考えてなかった模様。
何も考えずに、相手の時間をいただくのも、自分の時間を使うのも今の自分にとっては怖いのです。
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