悟ってるんじゃなくて、半ばそれは諦念なんやないの
家族に誘われて、「シン・エヴァンゲリオン」を見にシアターへ足を運ぶ。もう色々考察があったり、映画特典が転売されてたり、流石人気の作品だなぁ(?)と。一種の宗教とも言えるくらいの何か。ワタシは映画だけを見ていた人間なので、よく分からないこともあるけれど、映画を見終わった後に、何故か人生について考えてしまった。ワタシが受け取ったメッセージが、「人生」だった。
詳しい内容や考察はネット上にごっろゴロ転がっているので、そちらに任せるとして、今のぼやぼやと書いていこうと思う。
何故生きているのか。またこの質問。何回考えてみても分からない。答えのない、問題ではなく、「課題」。作品を作ること。飯を食うこと。生き残ること。眠ること。高校生くらいに時からちょくちょく訪れる、全てが虚しく思える状態が、映画によって誘発されてしまった。文字通り、全てが虚しい。誰かが悲しんだり、頑張ったりする姿が、無意味に思えてしまう。その先に何があるの。大団円でも、エンドゲームでも待っているの?そうやって、創作物の内容と同時に、人生について延々と逡巡してしまうのは、悪い癖だろうかね。
多分ね、ワタシは(或いは現代の人間は)ちゃんとした拠り所が無いんだと思う。エヴァンゲリオンという一つの物語の、「まだ終わらない」という状態が何故か心の支えになっている。「○○ロス」という表現は、まさにこのことを表す、現代特有の表現だと思う。ということは、「次のエヴァンゲリオン」が必要になるのだろうか。商業的にも、社会的にも、影響を与えるような作品が、ある程度長いスパンで(エヴァンゲリオンは25年ほど)人々のなんか、仮の拠り所みたいなものになるような状態。でも、いい意味でも、悪い意味でも、今後エヴァンゲリオンみたいな作品は、これからの時代には訪れなくなる気がする。みんな、バラバラ。頼るものが、心の支えが、無い。
ちょっとしたロスを感じているから、人生について考えてしまうのだろうなという思いと共に、宗教や神って、人間に必要なんだなと思うようになった。色々理由はあるけれど、人間には人間を超えた神のような存在(例えそれが作られたものでも)欠かせない。大災害の時に、人間が頼りなくなった時に、神に祈るように。ワタシは神に縋れないから、人生について考えるのかもしれない。そうすることで、人生を俯瞰して、神の視点に近づいて、穴を埋めようとする。けども、その穴は完全に埋まることは無い。ニーチェは、その穴の埋め方を教えてくれない。彼は、穴をあけてしまった一人でもあると思うから。
悟っているのだろうか。無意味で、空虚で、虚飾にしか見えないものを。それとも、今の社会や未来をただ悲観し、諦念を孕み、諦めているだけなのか。でも年金がもらえなそうとかは、なんとなく関係ない気がする。ともかくも、皆(珍しく思考停止)大きな穴を抱えたままな気がする。どこまでも埋まることが無い。何故か満たされない心。それを埋めるための、流行りや人気作品への没頭。それでも埋まらない。時には人生の意味を考えて、答がやっぱり無いとしって、暇つぶしや余生としての人生や人間(じんかん)で、また何か没頭する。その時だけは、穴が埋まっているような気がするから。
ただ生きて逝くだけだ。エヴァンゲリオンを見てそう思った。生きて逝くだけ。同じ毎日を。変わらない日々を。愚鈍な自分を連れて、ただ生きていくだけなんだ。あぁ、これから数年か数十年、このスタンスで生きていくんだろうか。特に意味がないと知ってさぁ、苦痛と幸せが交代交代の。働いて、飯食って、糞して、寝て。その繰り返し。ワタシは何に生きる意味を求める。生まれさせられた、かわいらしい子ども? アイドル? お気に入りの作品? 旅? 色々あるだろう。でもやっぱり、虚しいだけ。
Life's but a walking shadow, a poor player,
That struts and frets his hour upon the stage,
And then is heard no more. It is a tale
Told by an idiot, full of sound and cry,
Signifying nothing.
人生は歩く影法師。哀れな役者だ、出番のあいだは大見得切って騒ぎ立てるが、そのあと、ぱったり沙汰止み、音もない。白痴の語る物語。何やら喚きたててはいるが、何の意味もありはしない。(ジョン・ザザーランド、2020、67)
※英語の詩は本には後に書いてありますが、引用では先に書きます。
これは、シェイクスピアが息子のハムネットを失った頃につくられたと言われるもの。特に最後の「Signifying nothing」が、重く響くの。人生に意味がないと感じるのは自由だけども、これが真理というわけではない。だけど、エヴァンゲリオンを見終わった時に思い出したのは、このシェイクスピアの言葉達だった(と思う)。
(絶望した時は特に思うかもしれないけれど)人生には、多分大きな意味は無い。それは他者による意味付けでしか生まれない。だから、生物は生きている間に、何かを残そうとするんだろう。この意味で、人間が残そうとするすべてのものは、ダイイングメッセージ(常に死に立ち向かうもの)だと思う。人生とは何だろう。生きるとは。働くとは。どうして笑うのだろう。どうしてこんなにも苦しいのか。哲学者がそれについてもう考えてるよ? という本もあった気がするけど、ワタシはこの疑問の6周目くらいだ。でもまだ飽きない。
泣いてしまうね。もし今誰かがこの文章にあるようなことを、目の前でただ聴いてくれて、時時に何かを訊いてくれて、ただそれだけ(贅沢かもしれない)でもしてくれるなら、ワタシはボロボロに泣いてしまう。虚しいことが、こんなにもつらいのか。彼の様に、息子を亡くしたわけでもないのに、虚しい。思えば、ワタシは人との別れがニガテだった。数は多くないけど。ボロボロ泣いてしまうから、話す前に「先に泣きます」って言って。別れは、無くなることだ。虚しいことは、「無」の究極だから、きっとこんなにも悲しい。だから、最初から出会わなければよかったのにとさえ。
虚しいね。何もかも。でも、そうじゃないものではなくて、虚しくてもイイと思えるものを、見つけたいんだね。そんでなるべく、笑ってたい。
と
今日も大学生は惟っている。
引用文献
ジョン・ザザーランド.2020.若い読者のための文学史.すばる舎