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何者かであらねばという権力に、屈従していたのかもね

ある物事というものは、他の視座からひょいと見てみると、どうにも奇妙に見えてしまうところがある。そういった気づきのようなものから始まる今回の記事は(ワタシが書くのは大体このパターンなのだけれど)、今まで悩んできたことを、ある意味では一蹴するようなものだ。

pour devenir moi-même

自分に興味ありますぅ?

【哲学】もう、この世界には他者しかいなかった

雨の中、木の麓、傘の下、闇の真中

「私」とは原理そのものか?

私に話しかける「私」という君は誰?

私が「一人」になったなら

と、色々「私」とは何かを問う記事を書いたきたことに気づく。noteを始めたばかりの2020年の一月の時点でもうこのような事を書いて、今もそのことを意識しているのだから、案外この問題(?)というか疑問は、ワタシの中に図太く根付いているようだ。

大学で最後に出される五千字から六千字くらいのレポートなら、多分提出できますね。知らんけど。

まぁ、記事を書いているうちに、なんとなくわかることがあった。だって、出会う本、出会う本には、「私」が原理として存在することはないとしか書いていないもの。それ以外の意見は、もう古いとされ批判されているものね。

そうやってその考え(偏見)が染み込んできて、実際の自分の生活を土台にして観察してみて、たしかに「原理としての「私」」なんて、どこにもないんやなぁと思わざるを得なかった。

ここで、ワタシはある本を読んでいて気付いた。「日常から考えるコミュニケーション学」という本だ。

鄭 暎恵 という方が書いた、上野千鶴子さんの書いた『脱アイデンティティ』という本の、「言語化されずに身体化された記憶と、複合的アイデンティティ」という章の内容からの、「日常から考えるコミュニケーション学」での引用なので、この記事でそれを引用すると孫引きになってしまうが、ご容赦いただきたい。

「特に, 近代国民国家の境界線が強化されるにつれ, 「いずれの国民であるか」が強く問われてきた(鄭, 2005:210)

ワタシは、知らず知らずのうちに、この政治性或いは、「見えない」権力にさらされ、影響を受けていたのかもしれない。「何者」、「私とは何か」という自分から発生したような問は、実は非常にパラダイムというか、この時代の影響を強く受けたもので、実はその問をしているということそれ自体が、自立(自律)的ではなくて、誰かからの盗作みたいなものでしかないとさえ思ってしまった。

「何者かであらねばならない」

ワタシはそれを自明なものであるものとして捉えていた。

パスポートを作った人なら分かるかもしれないが、パスポートを作るのは、本当にめんどくさい。それにあまり時間がないとくればなおさらだ。本籍とか戸籍とか、色々なとこに足を運んで、マジでメンドクサイ。

その面倒くささもまた、「何者かであらねばならない」ということの強迫感を間接的にを示しているように今は感じられる。

しかしながら、「何者かであらねばならない」のだろうか。どこへ行くにも、「何者かである」ことのデータを示さなければならない。(もちろんそれによってワタシは恩恵を受けることが出来るときもある。)

結局、(特に国にとって)、「何者かである」というのはデータでしかなくて、つまりはデータとしてのみ存在出来ているものであって、ワタシという人間は、案外データの塊なのかもしれないと感じた。

しかしそれにとどまらない。これからも、「何者かであらねばならない」ということを求められるのだろう。特に就職とか。何者かでなければ、受け止めてもらえることさえない。否定され、排除され、排斥され、無視される。

「何者かである」のでないならば、この社会で生きて逝くことがまるで許されないかのように。そのある意味で固定的に、「人間」を捉えようとする考えそのものが、人間の中にある不安定性、多様性、不確実性を、どんどん隅まで追いやっていく。

ワタシが、「私とは何者か」と問うことそれ自体が、自分自身の不確定性を無視し、排除していたのだろうか。自分を苦しめていたのだろうか。それなら、ごめんなさいって言わなきゃだね。

だからね

なんとなく、「何者かであらねばならない」ということを、少なくとも他人に強要するのは辞めようと思った。友達とかにさ、自分の理想像を勝手に押し付けるという形で、「何者」を強いるのは辞めようと思った。もしかしたら、話のネタとかにはするかもだけど。

そして、もちろんそれは自分自身にも。

知らない権力みたいなものに屈して、自分の考えの元にあるものを構造的に見ようとせず、ただただ悶々と自分を探し続ける。まさにこれこそ、「認識論誤謬」ってやつだよなー。バカみてぇだ、自分が。


自分とは何者であるか


その問に隠された、パラダイムとか、権力性や政治性、偏見、誰かの思惑や志向を、これからは疑っていこう。頭に浮かんできたものに流れを添えるのもいいかもしれないけど、その自分の考えのように見えるものの裏に何が隠されているのかということも、気にしてみるべきなのかもしれない。


自分とは何者であるか

と、何故問うようになってしまったか


「自分」とは、どのような過程を経て、この時代に存在しているのかという、もうちっと広い視点でね





今日も大学生は惟いたい。


引用文献

鄭 暎恵 (2005).「言語化されずに身体化された記憶と、複合的アイデンティティ」上野千鶴子[編]『脱アイデンティティ』勁草書房.


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