煩悶は哲学と反哲学の間隙で
「反哲学入門」という本を読んでいた。
哲学を勉強し始めて一か月と少しの私がいきなり「反(アンチ)哲学」を勉強しようとは一体何事か?
と自分でも思っているのだが・・・
しかしこれを繙いてく中で、私は少々?危険な領域に足を踏み込もうとしていた自分に気づいた。
哲学とは、つまるところそれも一種の、それも特殊な論理の体系。
アテナイに生を受けた、ソクラテスという醜男と、その弟子プラトンが源流となるバチバチの西欧の人の思考回路の模倣。
アリストテレスが、そこから諸学を切り開いたとはいうものの、それは結局は「哲学(仮)」と流れを継いでいる。
哲学を勉強する中で、思考がズブズブと西欧式に染まっていくことを私は意識できず、万学の祖に触れている気分になっていた。
しかし「反哲学入門」は違った。
ソクラテスやプラトンは、彼らが生きた時代の環境の影響をドバドバ受けている。背景がそもそも異なっているのだ。
私はソクラテスの断頭を見てはいないし、ペロポネソス戦争にも従軍していない。
精神的にも、身体的にも、文化的にも異なる私日本人は、それを根幹から理解することは難しい、とこの本は言った。(無駄とは言ってない)
さてどうだろう。
いよいよ本格的に、哲学の勉強に勤しもうと息巻いてた私は、いきなり出鼻をくじかれてしまったようだ。
哲学するということは、ある意味で片寄った見方を得ること。
しばらくは方向を変え
哲学と反哲学を勉強することにしようか・・・
と
今日も大学生は惟っている。
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