潔さと無限後退と矛盾(仮面ライダーオーズ風)
「絶対なんて絶対ない」
自家撞着を引き起こす典型的な文章だ。
このようないつまでも、どこまでもいっても答らしい答えが見つからない考えというものは、
アリストテレスの考えにもある。
「不動の動者(unmoved mover)」
つまり、人間ではなく、この世界はすべての神の手の上にあり、神があらゆる運命を決めるということ。
人間が手を動かすのは、神経や筋肉が動くから。
神経や筋肉が動くのは、脳が命令をしているから。
脳が命令をするのは、と、どんどん原因を遡及的に探し求めた先に、「神」がいるということだね。
でもここで、その「神」を動かしているものがあるのではないかと思う人もいるやもしれない。
そうだとも。それはなんら不自然なことではない。
ある証明を証明するために、又別の証明が必要になってくるように、何かが動く原因のその先には、また原因があると考えてしまう。
つまり
先ほどの「不動の動者」は、一種の思考停止。
神という存在を証明したとしても、ではその証明を証明するために、証明をしようと云うこともできるが、何かしら「真理」「基準」が無いと不安になってしまう人間は、敢えて思考を停止したのだろうか?
しかしこの思考停止も、一種の「潔さ」と捉えることもできるのではないだろうか?
絶対なんて絶対ない
ならその「絶対なって絶対ない」という考えも、絶対ないということになり
さらにその考えも絶対ないということになり、どぎゃぁぁぁあん・・・と延々と続いていく他ないのである。
ならば
あらゆる証明を必要とするものごとは、どこまで行ったとしてもそれが本当かどうかなんてわかるはずもなく、「潔さ」という名の思考停止が欠かせないということになる。
そこで人は「信じる」という行動をする。
そうなのだから、そうなのだという「潔さ」は、我々人間が、精神に異常をきたさないように、自分の生に意味のない事を認識しないようにするには、もってこいの代物。
ほどよく生きていくには、
「潔さ」と
「無限後退」と「矛盾」を、そうだと認めてやる(思考停止する)ことが
割かし重要なのかもしれない・・・
どんな知識や知恵にしても、究極的には、どうして正しいと証明できますかと云われると、そこにはほら、
何もない。
価値があろうとも
値段がついていようとも
誰かに認められていようとも
それは
どこかで潔く思考停止しているのだ。何かしらの考えを信用するということは、そういうことでしょう?
と
今日も大学生は惟っている。