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HSPの憂鬱:「HSPだからこそ」って、HSPのあり方を一元化してる気がする

よく、というかもう、その類の記事しかないのではないかと思ってしまうほど、「HSPだからこそ」という記事を見かける。おそらく、「HSP」という性質自体が、如何に脆弱で、fragileかを知っているがゆえに、言葉だけでも、意識だけでも、「HSPだからこそ」と云いながら、プラスにしておこうということなんやろうか。

しかし、全員が全員そうではないことに対しては、言を待たないだろう。

「HSPだからこそ」という文言には、異文化を理解する時に起きてしまいがちな齟齬というか、誤謬というか、認識におけるミスというか、そういうものが見て取れる気がするのだ。

「こそ」という表現は、非常に限定的だ。「彼こそが」「それこそ」「まさにこれこそが」は、主語が、唯一性を帯びていることを感じさせる。「the very」という文言が、見え隠れしているような。これに続くなら、「だからこそ」、そして「HSPだからこそ」という言葉は、あたかもHSPというものが、一種の明確な性質を持ち合わせていて、(その中にあるはずの)多様性・変容性が無視されている気がするのは、気のせいだろうか。

「HSP」には、HSPらしくない奴もいれば、というかそれ以上にひどい症状に陥り最早HSPという言葉では表現できないところまで言っている人もいるかもしれない。或いは、HSPでは結局無かったという人もいるかもしれない。

つまり何が言いたいのかと云われれば、ワタシもよく分からないが、「HSPだからこそ」という言葉が対象とする集団は、ある程度「包摂と排除」を含んでいるのではないかということだろう。「HSP」という言葉が使われていながら、HSPが排斥されているような気がして。それはまるで、「みんな」の中に、「アイツ」だけ入っていないことみたいに。

「HSPだからこそ」は、本当に、「HSPだからこそ」なのだろうか。自分がHSPであるからと言って、その性質がすべてのHSPに当てはまるわけではない。もちろん。そうであるのに、「HSP」の私が出来たのだから、≪同じ≫「HSP」のアナタにも出来るよという言葉は、なんとなく、ひどい自同者化(暴力)に見える。(本当に勝手な言い分だけど)

例えそれが、善意(の様なもの)から由来するものだとしても、「HSPだからこそ」という文言は、「HSP」という言葉で、暴力的な一元化を(無意識に)行っているのかもしれない。

まぁ、そりゃそうだろう。彼と彼は違うし、彼女と彼女は違う。深淵があって当たり前なのかもしれない。だからこそ、誰かが、誰かと誰かと同一者化していることに、違和感を覚えるのかもしれない。

というか、そもそも私はHSPなのではなくて、ただ臆病なだけのだろうか。知らんけど。


今日も大学生は惟っている。



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