正しさと不道徳
生きる。
この世に産み落とされてからというもの、生物、特に人間は「生きる」ということに関して悩むことが多い。
この「生きる」ことに関して相反する考えを私は不図見つけた。
人を悪徳に誘惑しようと思う者は、たいていその人の善いほうの性質を百パーセント利用しようとします。善い性質をなるたけ少なくすることが、誘惑に陥らぬ秘訣であります。(三島由紀夫、1967、140)
しょっちゅう嘘をついたり、盗みをしたり、人の悪口を言ったりする人はいっぱいいる。まぁ、いいだろう。彼らは、それは正しくないことだと、ちゃんと知っている。あるいは君が望むなら、不当なこと、と言いかえてもいいけれど。でも、それで彼らは幸せだろうか?(ヨ―スタイン・ゴルデル、1995、97)
さて私には、どちらの生き方の方が正しいか幸せかは分かりかねる。
そう簡単に解ってしまうほど、ぬるいものではない。
三島由紀夫の提示するような、「不道徳」的に生きるとは、ソクラテスの言うような「正しく」生きるとどう関わるのか。
最初に「相反する」と書いてしまったが、どうなのだろうか?
良し性質をなるたけ無くす、ということが結果的に自らが幸せに生きることにつながるのならば、それは正しいと言えるのか?
それとも
嘘をついたり、人を殺したり、万引きをしたり、人をさげすんだり、自惚れたりすることは、それ自体が正しくない、不道徳的なことであるがゆえに、生き方として、幸せではないと言えるのか?
動機と結果
これは徳倫理学の、動機と結果の違いに帰納できそうだ。
動機が何であれ、それが結果的に善い行いになったのならば、それでよいのか、動機こそが大事なのでと考えるべきか・・・?
これはベンサムの功利主義にもかかわって来るが・・・
話しがそれたので休止。
さて、
あなたはどちらが「正しい」と考えるか・・・?
不道徳的に生きてでも幸せになるか
それとも
動機から正しい行動を心掛けるのか
と
今日も大学生は疑問を呈する。
引用文献
三島由紀夫.(1967). 不道徳教育講座. 角川書店
ヨ―スタイン・ゴルデル.(1995). ソフィーの世界. (池田香代子). 日本放送出版協会
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