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(一つの)アウラから、複製へ。アウラの消滅から、それぞれのアウラの創出へ:その二。


四つ目の系(レゾー)


そしてこう考える人も、必ずいるでしょう。


他人と同じなんてなんかいや


「いやだ!」ではなく、「なんかいや」なのです。誰もが同じような複製品を手にし、似たような生活をする。完全にではありませんが、そうなりかけていた時代があったのは、確かかなと思う。

ここで重要なのが、四つ目の系(レゾー)。この説明については、先ほどのように「ノイズ 音楽/貨幣/雑音」から引用したいと思う。

交換の彼方に考えられ得る最後の系。音楽は、そこで作曲、即ち音楽家の享受、根本的にすべての交通の外にあり、自分自身の悦び以外の目的を持たぬ行為、自分自身とのコミュニケーション、自己超越、孤独で個人主義的な、それ故非商業的な行為(ジャック・アタリ、2012、57)

これが、四つ目の系(レゾー)についての説明文。一、二、三の系(レゾー)とはその本質を異にし、ある意味では極めて個人主義的な系(レゾー)と指摘されている。

特に注目したい特徴は、「自己超越」という部分である。「他人と同じなんてなんかいや」ということを考えるようになる人間が増えているということは、他人を比較することそれ自体がそもそもナンセンスというか、嫌悪の対象になることを意味するのではないか。それゆえに、比較の対象は、常に自分。

反復、複製という、他者との差異の喪失を助長するような社会的趨勢にへきへきし、他者とは異なる方向を目指そうとする動きが、いやそもそも他者と比較することが無意味となる方向に向いている。そうした、自分らしさ、自分の個性、アイデンティティをよりアウラ的に想像し、創造し、創出することが、何者かに強制されるかのように、社会的な性格として現れているのではないかと。

四つ目の系(レゾー)は、それを予言しているのではないかと考えられる。

休憩中に、また例のグッズを販売してくれるサービスの広告が流れてくる。広告をスキップさせずに、しばらく見ていると、家に大殿籠っている状態でも、”自分の”、オリジナルグッズを作ることが出来るという。

”自分の”、オリジナルグッズ

見れば見るほど、これが音楽の四つ目の系(レゾー)の延長線上にあるものにしか見えなくなる。引用文にあった特徴をもう一度記すと、

自分自身の悦び以外の目的を持たぬ」「自分自身とのコミュニケーション」「自己超越」「孤独で個人主義的」(ジャック・アタリ、2012、57)

他人との差異などが意味を持たない。なぜなら、反復の魔の手は想像以上に肥大化し、「他人と同じなんてなんかいや」という思いすらも、反復させ、複製する。「他人と同じなんてなんかいや」という他人と似たような矛盾が、実は音楽の四つ目の系(レゾー)つまり作曲の系(レゾー)に内包されているのではないか。

こんなことを考えて”観”ましょう。「”自分の”、オリジナルグッズ」というものが、非常に多くの人間によって作られているとしたら、それ誰が買うんでしょう。得してるのは、その「”自分の”、オリジナルグッズ」を作りたいけど、作れないという悩みから生じる代行を行う企業だけでしょうね。おそらく。

「オリジナルグッズ」が、既に想定されたものであり、一つのプラットフォーム上での作られるものでもあり、大衆化されたオリジナルとしての存在でることが、オリジナルグッズ(言ってしまえば、カスタムメイド)製造サービスなのではないか。(0から1のオリジナルグッズではなく、もう既に87くらいの土台が作られた状態のオリジナルグッズみたいな。)

もちろん、「”自分の”、オリジナルグッズ」を、良いとも悪いとも云うつもりはありませんけどね。


続く


参考・引用文献

ヴァルター・ベンヤミン.2000.複製技術時代の芸術作品.(多木浩二訳).岩波書店

ジャック・アタリ.2012.ノイズ 音楽/貨幣/雑音.(金塚貞文訳).みすず書房

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