人の偶然性を無視するなよ
「偶然性」という言葉を最近は気にするようになった。色々本を読んでいると、ハイデガーなり、アリストテレスなり、九鬼周造なり、スピノザなり、ライプニッツなりと、割といろんな人が、「偶然性」「偶然」というものについて論じているようなので、もう少し深くさぐってみよう思う今日この頃です。
ひとまず、ワタシが現時点で「偶然性」に関連して言うことの出来ることは、他者の「偶然性」を無視するのはいかがなものかということです。タイトルは、やや断定的なものにしているが、内実はただの「だろうか」という仮説のようなものにすぎません。
人間というのは、なんでもかんでも鋳型に入れたがる生き物であります。それは生きるために必要なものでもありますが、しかしそれは同時に歪んだ認識を生み出しているものでもありましょう。
固定的、必然的であることは、つまりは安心感を生み出すことにつながることです。何が生起するか分からない将来(未来)よりも、何が起こるか分かる将来(未来)の方が、安心感を覚えるのでしょう。それは例えば、合格するか分からない学校について考えることよりも、既に行きたい学校に合格している場合に、その学校についての情報を集めることの方が、安心感が感ぜられるようなものでしょう。
しかし、他者にも、そのまま固定的な予定調和といいますか、ずっと変わらずに在り続けることを求める、必然性を求める態度は、非常に悩ましいものです。(どこかの女王は、そこに居続けるためには、走り続けなければならないとさえ言いました。)
偶然性とは。そのことについては、著書にあたることをお勧めします。九鬼周造さんあたりがいいでしょうか。とりあえずここでは、「偶然性」そのものについてはあまり深堀することはしないで、とにかく、他者の「偶然性」を無視することは、よした方がいいことについて、書いていきましょう。
この話題は、以前書かれた「【哲学】人間が恐れているのは、一般名詞の記述が揺らぐこと」という記事とも、ある意味では関連しています。
万物は、生成変化(flux)するものです。細胞が、体細胞分裂を繰り返して、常に(現時点での)最高の状態に保とうとするように、また減数分裂が有性生殖の結果、生れるものが、親とは異なるものであるように。(例え無性生殖であっても、環境がまったく同じであるとは限りません。)
なら、ワタシたち人間も、変わらないはずがありません。むしろ変化し続けるものです。そしてその中に、「偶然性」もあると考えています。偶然性は、おおよそあらゆるところに登場するでしょう。物事に、人に、自分に。この「偶然性」ということばを、私は「if」或いは「si」という意味でも使っています。
「~かもしれない」「もし~」を、見逃すというか、無視することは、つまりは、「偶然性」を無視、軽視することなのではないでしょうか。視点というものは、固定的になりがちです。”もしかすれば”、「視点というものは、固定的になりがちです。」も、一種の固定的で、狭隘なもの”かもしれません”。
きっと世の中には、知らない「if」や「偶然性」がたくさんあるのでしょう。(もしかしたらこれも、偏見かもしれません。)そして、それを無視することは、より狭い、偏屈で、偏狭な視点に留まることを意味するのでないでしょうか。
友達だと思っていた人間が、裏切る。弱いと馬鹿にしていた人間が、強くなっている。あると信じていたものが、無くなっている。美味しいを思っていた料理が、不味かった時。続くと思っていた日常が、突然終わってしまった時。
自分に衝撃を与えるものは、想定していなかった事態であることがおおいでしょう。それは、あなたの「if」には含まれていなかっただけです。つまりは、偶然性を見ていなかったのです。
人には、数え切れないほどの偶然性があるでしょう。自分には受け入れがたいもの。御し難いもの。度し難いもの。許し難いもの。想定が出来ていたとしても、必ず、耐えられるというわけではありませんしね。故に、「偶然性」について考えることは、ある意味で「覚悟」することでもありましょう。
しかし、他者を鋳型に当てはめ、理解した気になっているよりかは、「もしかしたら」について少しでも考える方が、(恣意的な判断の結果)良いのかなと考えるのです。
と
今日も大学生は惟っている。
参考文献
木田元.2001.偶然性と運命.岩波新書
西島佑.2020.「友」と「敵」の脱構築 感情と感情と偶然性の哲学試論.晃洋書房