旅行から観光への変化と、消費活動の変化から見える矛盾。
19世紀の諸革命を契機に、「旅行」は大衆化された「観光」に変化していった。極めて劇的に変化したというわけではないが、その変化の速度には驚かされるものがある。
「旅行」は、例えるならば、自分で自分の身体を使い、スポーツを行うこと
「観光」は、そのスポーツを見ること
主体的、能動的に未知の存在を希求し、時には自らの命を賭すことさえありうる「旅」「旅行」は、その体験としては、純粋なものに近しい存在であると思われる。
対する「観光」は、マキャーネルの言葉を借りれば「演出された真正性」。つまり、本物っぽく作られたもの。笑顔で迎えてくれるホスト達、豪華な食事、お土産、写真の風景、その地域を代表するような文言、ご当地キャラクター、博物館、その地域に起こった出来事を展示している記念館。観光でなくとも、この時代、どこか違う共同体へ「移動」するときにかかわって来るもののほぼ全てが、本物っぽく作られたもの、という恐れがある。
しかしながら
特に現代の日本社会に特有の消費傾向は、単にものごとを外側から見るような、物質的な消費ではなく、体験的な消費が重視される。仮面ライダー好きの子供がするように、仮面ライダーの番組を「見る」だけではなく、変身ベルトを使用して仮面ライダーになるごっこ遊びをする。こういった、自らが日常では体験できないようなものを感じるという消費行動が、ますます増えていくかもしれないのである。
ん?
でも何故だろう。
殊「観光」に限って言えば、現代の消費行動と矛盾しているような部分がある気がする。
観光
「する」➡「みる」へ
消費行動
「みる」➡「する」へ
観光は、する「旅」「旅行」と比較すると、その一般的性質としては、受動的な「見る」である。
現代の消費行動は、「みる」ことよりも、体験として、「する」ことの方が価値を持つ。
この差異から推測できることはなにか。
消費行動の一貫とも考えられる観光の「みる」と、消費行動の「する」という矛盾?は、
人間が「する」と思っている活動が、特に「観光」の中では、極めて作為的な存在であるということ示しているのではないだろうか。
終局、マキャーネルやブーアスティンの言うような、「疑似イベント」や「演出された真正性」とは大きな変わりはないと言えるかもしれない。
しかしながらより重要だと思われることは
「オルタナティブ・ツーリズム」だの、「サステナブルツーリズム」だの、大衆観光の反省として登場した新たな観光の形態も、「人々にそれっぽい〈する〉体験をさせているだけの〈見る〉スポーツ」に何ら変わりはないのではないか・・・ということだ。
サピエンス全史から言葉を借りるなら、「虚構」。その最終段階。
当たり前のように思えるかもしれないが、
家族も、国家も、信用も、未来も、将来も、国際機関も、憲法も、法律も、共同体も、伝統も、慣習も、宗教も、真理も、そして観光対象も、すべて「一にして不変」の存在ではなく、人間が想像し、創造した、「虚構」の延長線上にあるもの。
この地球という星が出来てから、「法律」がなにかしらの形で、存在していたというわけでもない。
物質的に飽和した社会、自己実現を個人が目指す時代、精神的な充足を求める時代。
如何にして「虚構」を「虚構」らしく見せないかが、重要になってくるのだろうか・・・
いやそもそも、何が本物かなんてわからないのだから、その対的な「虚構」を偽物と切り捨てることは出来ないな・・・。
本物か。偽物か。
何が本物か。何が偽物か。それとも、その二項対立的な考えが良くないのか・・・。
そもそも「本物」なんてものがあるのか・・・?
と
今日も大学生はながんでいる。