「touristify」について
いつもいつも日本語で本を読んでしまって、全然外国語で本を読まないものだから、久しぶりにハードバックの洋書を手に取って読んでいると、見慣れているようで見慣れていない言葉をみつけた。「touristifed」。見た感じ、過去分詞なのだろうなと思って、「touristified meaning」とうって検索してみると、「touristify」という動詞の変化形だと分かった。
なんだか「touristify」の動詞の意味も気になってしまったので見てみると、「To make suitable for tourists, especially by adding superficial frills at the expense of authenticity.」と書いてあった。どこのサイトを見ても、この定義のようだ。だが、この意味を見て、少々思う所があったので色々書いていこう。
即自的
まず「touristify」という動詞には、ある立場からみた視点というものが欠落している恐れがある。というのも、「To make suitable for tourists」という準動詞を含む名詞句の意味上の主語は、「tourists」という人達になっているからだ。つまり「観光地」にいると思われる住民や地域の人々は、主語としては想定されてはいないということになる。「touristify」は、あくまでも「tourists」の為だけのものということだろうか。
付け焼き刃
また、「adding superficial frills」という言葉も気になった。どこか、この言葉の定義をした人物からは、意図さえ感じられるが・・・。簡単に訳せば「表面的な飾り(虚飾?)であつらえる」といったところだろうか? 「tourists」という人達のために、まず環境を快適にするということが求められているものが「観光」であるという考えも読み取ることが出来る気がする。やはりここでも、ただ環境(アメニティ)を快適にするだけで、そこに住まう人々の意志のようなものが全く現れていないようなきがして、狭い定義だなぁと思ってしまう。
真正性と本質主義
定義の最後にある「at the expense of authenticity.」もまた、考えものだ。「真正性を犠牲にして」という風に訳すことも出来るが、そこには色々偏見が含まれている。まず、観光空間を快適にするという行為には、真正性を犠牲にするという行為が常につきまとうという考え。また、真正性が存在している考えだ。観光を快適にするためとはいえ、必ずしも真正性(観光資源の唯一性)を犠牲することは必要ではない。互いの要素を打ち消し合うことなく、混ざり合いながら、施策を行うという選択肢も考えられるのに、「touristify」という動詞には、そのようなことが考慮されてはいない。
真正性が存在しているという考えも、ある種の偏見だ。この世のあらゆるものは、観光資源であり、観光対象になりうる可能性があるはずだが、真に本物としての「真正性」があるというのは、極端すぎる(勘違いかもしれないが)。何がホンモノで、何がニセモノか。その境界線が曖昧な現状で、「at the expense of authenticity」と言うのには、少し気が引ける。観光や、或いは旅や旅行には、「虚構性」を初期から持ち合わせているものもあるのだし。
この他にも色々言いたいことはあるけれど、それはただのブログで書くと複雑かもしれないし、長ったらしくなるかもだから、辞めておこう。では!
と
今日も大学生は惟っている
参考