見出し画像

考えない日記:5 5/1-6

5/6 ツイッターでフェリーニの『アマルコルド』がネット上映されていることを知ったので久し振りに観る。狭く愛くるしい台所、くたびれたいくつものセーター、民具、そして歯科矯正されていない役者達。
アマルコルドとはイタリアの方言で、語源には「こころが愛するもの」といった意味があると須賀敦子著『塩一トンの読書』(河出書房新社)に書かれていた。どこか見覚えのありそうな、タルコフスキーとは違った美しいけれども過度に美し過ぎない風景が肌に馴染みのある土っぽい心象として身体に残る。

夜、雷。就寝中にとてつもない地響きの雷鳴があり何度か目を覚ます。

故障したのか大工さんがいつもとは違う車で近所の現場に来ていたのを思い出す。とても不良的な一昔前のセダン。

5/5 前に買った切り花が、アリストロではなく「アルストロメリア」だと教えてもらう。泳ぎたいほど暖かな午後。紫蘇の芽が出てきた。

5/4 雨。家の中でずっと聴く。一旦止んでまた降り出す。

5/3 日曜日。犬が足を踏まれたような声がした。

5/2 蚊に起こされた。刺された。よく寝ていたはずだけど時計を見るとまだ夜中の十二時二十八分だった。電灯をつけて暫く格闘して殺し、もう一度寝た。
今日は退院する親戚を迎えに行く。流行りの病気ではないけれど高齢なので心配していた。入院中は病院全体の方針で親族も面会禁止だった。ケーキが食べたいと言っているらしいので、家族が予約を済ませてある。

5/1 毎日の些細な決まった作業が滞りなく行えるというのは心地よいものだ。朝のシャンプーの場所が目をつむったまま分かる位置にあるとか、ドリップコーヒーを淹れる台所の角が適切に空いているとか、カーテンとか窓の開き具合と、腕にかかる力の均整だとか。

台所の隅に昨日購入した甘夏とジャガイモが置いてある。使いかけで今は芽の生えたのを楽しんでいる玉ねぎなどと。甘夏とジャガイモは商店街の八百屋さんでそれぞれ百円で、バナナも百円だった。袋の中で既に青い芽の出ている別のジャガイモは五十円だったけれど買わなかった。蕪のぬか漬けも一つ買った。

八十代の両親がテレビに出てくるカタカナを紙に書き写し居間の机に貼り付けているという知人の話を聞いた。彼女が「なんで?」と聞くと「だって、そうしないと全然分からないじゃない」と答えたらしい。彼女自身、ブルートゥースという単語を最近覚えた(覚えていない?)そうだ。

アリストロメリアの茎をさらに1cmほど切って水を変えた。
買ってあったベーグル屋さんのマフィンを朝ごはんにした。


考えない日記:5  終了

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?