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読書中座記:『ベル・ジャー』 ガラスの中のシルヴィア・プラス

一度書いた感想を消して書き直している。どうもひっかかることがある。『ベル・ジャー』は精神を病んだ若い女性の自伝的小説で、この本をすいすいと二日半で読了した自分はある程度心身が健康なのだ。

『ベル・ジャー』 シルヴィア・プラス著 小澤身和子訳 晶文社



過剰な劣等感を抱えた主人公の学生エスター。彼女の瞳の中から、欺瞞に満ちた世界をともに覗き見るように始まる小説『ベル・ジャー』

母子家庭で、敬虔なプロテスタント信者の母親とともに育つこと、狭い視野、いい子を期待されること。女性であることににかかる重圧、気取った男たち。
彼女の瞳の中でともに見ていたはずの、その滑稽な世界から、読者はいつのまにか放り出される。気付いたときには、すでに知らない場所にいる主人公エスターの姿。綴られていく悲しみや恐ろしさが積み重なる一方で、なぜかおとずれる静寂に似た空気。彼女自身すら自分を外側からみているような情景。

わたしは運ばれるのを待って整列しているトレイを愛おしそうに見ていた

p.318


この小説は心を弱らせている友人には勧められない。著者自身が精神を病んだ二十代の出来事を下敷きにした小説で、のちにシルヴィア・プラス本人も強烈な出来事を起こしたことが後書きで紹介される。

美しい装丁に巻かれた帯にはこうある。

「世の中は欺瞞だらけだと感じる人、かつてそう思ったことがある人たちに刺さりつづける、」

日々をのうのうと暮らしている自分のような人間はむしろその欺瞞の一部なのではないか。この小説が気に入った、刺さった、というのはどの部分の、どの深さのことなのか。
誰かが自死をこころみるほどの闇や劣等感や虚無感を、小説という追体験で楽しむこと。そのことにより起こった感情が「刺さる」ということなのだろうか。


装丁(脇田あすかさん)装画(安藤晶子さん)『ベル・ジャー』シルヴィア・プラス著 小澤身和子訳 晶文社

シルヴィア・プラスの文章がひどく読ませ上手なのは間違いない。もちろん翻訳者の手腕も光っている。特に前半は主人公の吐く毒舌に笑いを起こされもした。女性にとっては痛快かもしれないし、自虐的に自分を笑える男性は、”背の低い、しみったれた男”だとか”我慢のならないタイプの男”、”よれよれの青いジャケットを着たちんちくりんな男”、”声が馬鹿みたいにかん高い”などと初対面の男を心の中で罵倒する主人公にほくそ笑むことができる。
こういった前半の辛辣で痛快な部分や、フィンガーボールの水を飲んだというようなコミカルな挿話は楽しく読めてしまう。「そうだよね、そういうことあるよね」と自分と照らし合わせながら読書がはかどる。しかし、そんな主人公がだんだん精神を病み、まるで別の世界へさまよい入るように、姿を薄くしていく。どうしてそんなふうに世界を見てしまうのか、と読み進める一方で、こちらはそこそこ健康的に生活していて、読書をしたり、気軽に映画を観に出かけている。
(*2024/09/25 追記:多分このnoteを読んでくれた方がTwitterでフィンガーボールの水を飲んだ出来事は彼女にとって「辛い体験、屈辱的な体験を語ってる。コミカルではない」との指摘を拝見しました。ほんとうにそうだと思います。彼女は自分を笑うことができない人間だったから。辛かった出来事として読めていないことに気付かせて頂きました。ありがとうございます。自分の周りに実際にフィンガーボールから水を飲んだという人がいたのを思い出し、瞬間的にコミカルな映像がうかび、そう判断していました。そういう点も含め、自分は本当の意味でこの小説を読める、読めた、とは言えないことを自覚しました)

この小説を二日半で読んだ。前半は楽しみ、後半は悲しみ、不安を抱きながら消費した。そして「良い本だった」と、書籍をあんちょくに閉じた自分がいる。

『ベル・ジャー』は、本当は才能のある一人の女性が、思春期の難しさと過剰な劣等感、弱さ、女性はこうあるべきと決めつける時代や環境、上っ面な世界の仕組みに、精神をだんだんと病んでいく過程を直接的に追いかける。
彼女の姿を内と外から見ることで浮かび上がる、(もしかしたら隣にいる)ガラス容器に封じ込められた蜃気楼のような危うい人生の数々。

この小説を読んでいるあいだ、世界のあらゆることに興味を失ってしまった知人を思い出していた。
誰かがガラス容器をほんの少し動かした痕跡を、著者やエスターの追体験としてではなく。耳をすます方法のひとつとして黙読することは可能なのかもしれない。

買い求めた書店の入っている商業施設の五階の駐車場は混んでいた。少しならんだあとで、ゲートが開き、キュルキュルと独特な音をたてた蒸し暑い駐車場。水色と薄緑、ほんの少しの赤が際立つ装画。手に取ると僅かにザラッとした表紙の質感。シルヴィア・プラス『ベル・ジャー』がそこにあった。


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