『そのみずうみに於て』 |ショートショート ♯シロクマ文芸部
海砂糖 その冬の村の 吸う息で咽を灼くほど凍てつく 夜の湖の水面を
ぶ厚く 硬く すべてを覆い 月明りをうけて一面びっしりと 白く咲き誇っている花々の正体
夜 初めて見たその少年は想像する もしもこの花が香るのなら
湖は咽せかえるほどだ 嫌いだ
満開の白い躑躅のようなそれをひとつ手にとった
黒いダッフルコートを着た静が
白いてのひらに残った 握って潰した 花の残骸を舐めた
江馬を背に 湖の向こうを眺めて呟く
「ここはきっととても広くて いや なにもかも わからない」
岸辺の岩のうえにすわっている江馬が呼ぶ
「それは風や気温差の条件がそろえば咲くんだ 夜に おかしなところだろう 気味のわるいところだろう」
静はふりかえり告げた
「甘いんですね 海のものだから塩からいと思った」
「海といっても 湖だから それにたしかに甘いけれど ほんのすこし辛いはずだよ」
静はてのひらをすこし嗅ぎ もういちど舌先でたしかめる
「そうかも」
ちかづき 江馬の鼻先へ差し出す
江馬は静のてのひらを握る 崩れた結晶のなごりを親指で躙る やわらかい皮膚
静はずっと見ていた
江馬は手のひらのなごりを払ってやった
「帰ろう この過疎の集落のちょっとした観光はここしかないんだ」
江馬が災害用備蓄倉庫から持ってきた大きな懐中電灯を点けると 花盛りの白い湖に反射していたあおい月明りが 眩んでわからなくなる
静はうつむき その片手で自分の顔を覆った
車に乗る
江馬の整髪料の匂い
静は助手席で見た 走る窓から 闇夜に真っ黒い山沿いの道から見わたせるその湖は 月あかりを反射して うっすらかがやいている
彼が言った
「帰ったらさすがに ご家族も もうみんな寝てしまっているから そっと上がろう」
静はうなずき しばらくそのままで そしてはっきりと言った
「止めてもらえますか」
ゆっくりと停車する
お読みいただき
ありがとうございました
初稿掲出 2023年6月25日
最終改訂 2023年6月25日
©︎かうかう
この作品は シロクマ文芸部 のお題「海砂糖」に参加させていただきました。