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靴を捨てるためのワルツ   │ シロクマ文芸部 短編

約3000字




白い靴が収められている箱を、彼女はじぶんたち夫婦のベッドルームで、そのおとこの子に手渡した。箱のふたを開けると、白い靴が交互に向きを変えて横たわっていた。

そのときにおとこの子は初めて、鞣された革の匂いを嗅いだ。

彼は彼女に質問した。「くれるの?」

彼女は彼に答えた。「そうよ」

おとこの子は、制服のまま座っているベッドに、靴をおさめた箱を置いた。

「すごい」おとこの子は、箱のなかの革靴をゆびさきで撫でながらつぶやいた。

学校指定のローファーとはまるで違う、とてもやわらかい革、しっとりとマットな肌理きめで、いたずらに光っていない。紐までまっ白で、底材の色だけがベージュだった。

「デパートに行ったの」そう彼女は話しだした。

「いつも化粧品を買いに行くのね、そのデパートに。ディオールのカウンターに座って販売員の女の子とたまたまペディキュアの話していたとき、このまえの昼に、ここであなたの両足のうらをつかんだことを思いだしたの。あなた、みっともない格好だったわね。ペディキュアってわかる?」

おとこの子はうつむいたまま、首を振った。

「足の爪に塗るの。あなたもしてみたい?」

彼女はダイニングから持ってきた椅子を、おとこの子の正面に置いて座った。

その子どもを見つめて、話をつづけた。

「それで、自分の足をみたの。自分の靴。黒のベルベットのミュールだった。でもあなたの靴を思いだせなかった。ひどいことを言うけど、汚い靴をはいていたってくらいしか思いだせなかった。あなたの靴は、ボロボロの靴よね」

おとこの子は答えた。「だって、ぼくらはその靴で走ったり、壁を蹴ったり川を渡ったりするから」

彼女は尋ねた「川を渡るの?」

「比喩っていうか、そのくらいハードに使うってことだよ」

「渡ったことは?」

「まだ渡ってない」

「わたしの前で、今度渡ってみせて。そして渡りきったら、そのままその靴を川に捨てて。話をもどすわ。そのデパートには地下があるの。そこには紳士靴売り場があるって、そのディオールの子に聞いたの。だから行ってみた。平日の昼間だったから、ガラガラだったわ。でも、とても広くて、たくさんの革靴があった。ほとんどが黒い靴だった。ねえ、あなたの靴は何色だったかしら?」

「たぶん、黒」おとこの子は自分の黒い靴下を見ながら答えた。

彼女は聞いた。「たぶん?」

「そうだよ。たぶん。目立たなければ、何色でもいいんだ」

そのおとこの子は、このひとは今日どこまで自分を馬鹿にするつもりなんだろうと、気持ちが暗くなった。まるで敵に追いたてられた飛行機のパイロットが、巨大な灰色の雲にまちがえて突入してしまって出口が見えなくなっているとき、乱気流に吹き飛ばされないように操縦桿を固く握りしめるような、そんなどこかで見たような映画のシーンを思った。

「なにも選ばなくていい子どもは気楽でいいわね」

そう彼女は言った。

おとこの子はこたえた。

「選ぶ必要のないものをわざわざ選ぶこともないとおもう」

彼女は言った。「わたしはあなたのためにそういうものをわざわざ選んだ」

彼女は椅子のうえで膝をかかえてしゃがみ、そして話をつづける。

「そうね、あなたに白い靴なんて、こんな靴は必要ないでしょうね。ほんとうに、まったく必要じゃないわ。でもわたしは、デパートの地下にたくさん並んでいた昆虫の羽根みたいな黒や焦茶色ばかりの革靴のなかで、これだけが柔らかくてまっしろだって気づいたの。手にとったら軽くて、あのひとの靴を下駄箱にしまうその重さとは比べものにならないくらいだった。柔らかくて、トウシューズみたいっておもった。まっしろだったんだもの。店員に聞いたの、これは女性のための靴か。そうしたら、その男は違うって答えたの。男性のための、街を歩くための靴だって」

彼女は椅子から脚をのばして立ちあがり、ベッドのうえの箱から靴を片方だけ取りだし、おとこの子の目のまえで片手のひとさし指で、まるでハチミツを掬いとるかのように靴の踵のうちがわを支えてみせて、おとこの子にお願いをした。

「ここで履いて、私に見せて。でもあなたにこの靴の紐のゆるめかた、わかるかしら?」

おとこの子は靴をうけとった。靴のなかをのぞきこみ、それからすこし制服の腿のうえで紐をいじって、紐のゆるめ方を発見した。そして履こうとしたときに彼女が声で制止した。

「やめて、指で靴のかかとを拡げないで。そんなことも知らないの? くつべらを持ってくるから」

彼女は玄関からくつべらを取って部屋に戻り、おとこの子に手渡した。

「もう片方も紐をゆるめて、履いて」彼女は言った。

おとこの子は言われたとおりにした。紐をゆるめてフローリングの床に置いた靴に、くつべらを使って両足をすべりこませた。

おとこの子は言った。「サイズ、ぴったりだ。ちょうどいい。不思議なくらい」

彼女は答えた。「店員が測ったのよ。贈りたい相手の足のサイズは、わたしの手のひらの付け根から、ひとさし指の先までの大きさと同じだって言ったの。店員はスーツのポケットからメジャーをとりだして、わたしの手のひらと指の長さを測ったの」

彼女はおとこの子の左足首を掴むと勢いよく上に引き上げた。おとこの子はベッドにひっくり返ってしまった。そして彼女はその子どもが履く靴の底と、しっかり伸ばした自分の手のひらとを合わせてみせる。

「ねえほら、そっくり、ぴったりでしょう」

そう言って、彼女はおとこの子の足から手を離した。

「しっかりと靴紐を締めて、床に立ちなさい」

おとこの子は上体をゆっくり起こして、かがみ、靴紐を結んだ。こんな程度のことは、おとこの子が彼女と寝るようになってから日常的だった。屈辱感はあったが、しかしまだ言葉として、そのみずからのなかの感情をまとめることができなかった。

そしてそのあと数ヶ月も経たないうちに、おとこの子は彼女の足首ではなく、彼女の首を掴んで自分の手のひらにすべての体重をかけてテーブルのうえに抑えつける。

おとこの子はその靴を実際に履いてみて、指先にも充分で適切な余裕があることを感じた。そして、すこし足指を床のうえで曲げてみたり、回してみたりした。

おとこの子は言った。「すごくいい」

彼女は「そう」と言った。そして屈んで、靴のうえから親指で、おとこの子の足を押した。やわらかな革の向こうがわに、成長しようとしている身体の一部があることを感じる。

おとこの子は言った。「くすぐったいよ」

彼女は顔を見上げて、「そう?」と言った。腰をのばして立ちなおして、彼の目をみつめて、「ねえ」とうながす。

そして彼女は、おとこの子の右手を軽くつかみ、肩の高さくらいに上げさせた。もう片方、左手は、自分の腰のうしろにあてがわせた。

その子どもはそうしたとき、どのように身体をうごかしたらいいのか、教えられてはいなかった。ただ彼女が動くようすに、からだを沿わせた。

「上手ね。わたしの足を踏んでも気にしないで」

彼女は裸足だった。おとこの子は白い靴を履いていた。そうしてベッドのまえで、ゆっくりとしたステップをふむ。

そして、彼女は子どもの肩にみずからの顔を寄せて、唄をうたった。

いま、彼女と目の前の子どもは背丈がほとんどおなじになってしまっていた。初めておとこの子がこの部屋に来たとき、彼はそのときまだ小学生だった。4年が過ぎていた。

そのおとこの子には、英語の歌詞だったので聴きとれなかったし、知らない曲だった。よくはわからなかったが、ジャズのように思えた。古い歌なのかもしれないとおもった。

ただ彼女の音程はささやくようであっても、とても正確だった。彼女は子どもの頭にほほを寄せた。

だからそのちいさなメロディーをたよりに、子どものそのあとのほぼ一年後、彼女とおどったこの部屋で彼女の夫だった男に、椅子に大きい銀色のアイロンの長くてカールした黒いコードできつく縛りつけられ、それから頭を何度もモンキーレンチで殴りつけられ意識が薄れていくときにも、そのときのことを思いだすことができた。







初稿掲出 2024年 5月19日


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