時が止まる
まだずいぶんと若かったころ、わたしは精神的にとても疲れてしまって、心身ともにいろいろな不調を感じていた。いま振りかえってみれば、幻聴や幻覚のような症状も多かったし、いわゆる解離症/離人症的な感覚をくりかえし味わっていた。当時のわたしには、医療機関に相談する、という発想がなかったので、「こんなもんだろう」と思って、ながくながく引きのばされたような毎日を過ごしていた。
昼前ごろベランダに出て、街に存在する無数の窓や鳥たちを眺めていると、いつの間にか陽が落ちかけている。
上野のあたりに用事があったのを、電車を降りるなりなにもかも嫌になって、歩いているとあたりはもう暗く、見慣れた新宿のはずれだったこともある。とちゅう、市ヶ谷のあたりを通った気がするな。ブーツを履いていたので、次の日は足が痛くて涙が出そうだったことを覚えている。
いそがしい街にあって、ぼんやりとひとり考えごとをしている時間が増えるなか、次第にわたしはこの感覚をおもしろがるようになってきて、どうにか文章にできないか、とあがいていた。確実に進みつづける時間の流れのなかにあって、時だけが止まってしまうような感覚がわたしは好きだった。なぜ文章のみにこだわりつづけたのか、いまとなってはわからないけれど、"時が止まる感覚"を直接的に表現するには、文章はあまりむいていないんじゃないだろうか、と思う。映像や音声であれば、わかりやすい表現がたくさん存在しているし、漫画なんかもうまく"直感的な"表現がなされている作品があるのにね。
文章を読むとき、"時が止まる"のは、あなたが読むのをやめたときなのだ。本を閉じなければ、時は止まらない。もっといえば、くりかえしくりかえし同じ文章を読んで、あるいは、偶然にもあなたのはらわたをえぐるような一度の遭遇のあとで、その文章があなたの一部となり、あなたが忙しく一定間隔で流れる時間のなかへ戻っていったあと、やっとただしく時は止まる。
このように考えると、逆説的に、文章そのものが時であるといえるのかもしれないね。映像や音声にくらべて文章は機能的に時間を内包していない、あるいはその度合いがとても少ない表現方法といえる。絵画なんかも、たぶんそうだね。
当時のわたしは、ついに"時が止まる感覚"を文章で表現できなかった。ときにはほんとうに苦しい思いをしたりしながら、いろいろ試してみたのだけど。人生が追いついてしまったということなのかな。しあわせなことだ、心から。
だけど、"時が止まる"のは、読んでいないときなんだ、と考えると、いくぶんか楽になる気がする。あたりまえのことだけれど、文章に限らず、あらゆる表現は比喩なのだから。あらわしたいものがそのまま表現できる世界がかりにあったとして、それってつまらなくないか。書けないから、あらわせないから、われわれは生きているんじゃないだろうか。いまのわたしはそのように思っている。
だからといって恐怖も、不安も、消えることはない。むしろその度合いを増すといってもいいかもね。われわれはそういうものを抱えて眠らなければいけないのだ。恐怖や不安を時間から切り離したとき、ひとはすこしだけ、それらをいとおしく思えるかもしれない。世界を変えるより前に、そのように暮らせたらいいよね。