【絵本をつくってみよう・0日目】説明しつづける、ということ
トップ画はAIに作ってもらった。すごいよね。
ながいながいイントロ
先日、わたしの数少ない友人と話をした。
「いま、この時代、われわれに必要なのは、説明しつづけることじゃないか。」と彼はいった。
なるほどたしかに、そのとおりだと思う。
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わたしは元来、写真を撮ることや、日記をつけることがとてもきらいだ。ある日常のできごとがひとつのティーバッグのようなものであるとするなら、わたしは気が済むまで湯に浸しておいてみたい、と思ってしまう。もちろん、永遠に湯をそそぐわけじゃないけれど、どちらにせよ、わるいくせだ。はたして、おいしい紅茶にはならないだろう。でも、たとえ、それが"本来の味"を損なうといわれたって、やっぱり一度、やってみたくなるのだ。けっきょくのところ、わたしのえぐみを、わたしがひとり、すするだけなのだから。飽きてきたな、というころ、歯を磨いて口を開きたい。これはわたしのひとりよがりだ。
写真を撮ったり、日記をつけるということ――これはつまり、区切りをつけ、"それ"を記録することである。
説明しつづけること、というのはつまり、記録しつづけることだ。
記録しつづけることにより、すこし味気ないお茶ができあがりこそすれ、"本来の味"のサンプルはたくさん集まる。世界はそのようなサンプルで満たされ、ひとびとの胸は期待に膨らみ、天にはしあわせのラッパと、翼のない飛行物体の稼働音が鳴り響くだろう。期待が世界を動かすのだから、ひとびとの営みは、記録されつづけるべきなのだ。だれにも望まれない、実験作のえぐみは、地下底深い隠れ家で、あなたがひとり、すすればいいのだ。
これはいわば、世界の真理といっていいのかもしれない。
わたし自身に注意しておきたいことがひとつある。
人類は記録しつづけること"しかできない"、というのは誤りだ。日記をつけること、それから、まずい紅茶をなめてみること、どちらもやってよいのだ。
人類の叡智は、びっくりするほど、記録することを容易にしてくれた。すばらしいことだ。だから時折、街に数多ひしめく偉人たちに、挨拶すべきなのである。
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日記・0日目
ちかごろ、絵本をつくってみたいな、とぼんやり考えている。われながらかわいらしいことに、わたしは絵が描けない。とっても苦手である。そして、記録するということもまた、大の苦手だ。実家にはおびただしい数の絵本と思い出があるけれど、今手元にあるのは数冊だ。絵本づくりの知識はゼロである。世界中のひとに読んでほしい、なんていう崇高な目標すらないのだ。わたしは頭がおかしいのか?
だからこれから――毎日とはいかないまでも――わたしが人類の叡智を借りながら、絵本をつくってみる過程を記録してみようかな、と思っている。
0日目の記録は、こんなかんじ。できるかな?日記も1週間以上、つづいたこと、ないものね。へそを曲げて穴倉を下るよりは、せめて、一日は一日じゃなくたっていい、と思ってやっていこう。