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希死念慮持ち、自分の「そこに在る権利」について考える。

体がだるい。まるで夜に飲む薬を飲んだ後のようだ。

水分も塩分も取っているので熱中症ではなく、単純に明日・明後日と病院に行かなければならないのが憂鬱なだけだと思われる。

明日は歯医者。大穴が空いていた虫歯の治療がある。

明後日はメンタルクリニック。メンクリに関しては薬を貰いに行くだけかな。


一時期「私はもうすぐ死ぬ気がする」という話ばかりnoteに書いていたような気がするが、この予感はだいぶ薄まった。

というのも、「まだ死ねない」と思えるささやかな出来事がいくつか積み重なったから。

フォロワーさんにグッズを頂く約束をしたり。
義姉と旅行に行く約束をしたり。


昨晩義姉とラインしていて、早くコロナが収束して旅行に行きたいという話になった。義姉は旅行が大好きな人だから、迂闊に動けない今の状況はストレス以外の何者でもないだろう。

彦根に行きたいとか、色々話してた割に実現できていないから絶対いつか行こう、と言われて、「頑張ってお金を稼ぎます」と返したら

「無理はしちゃダメだよ!無理した先に幸せは無いからね」
「無理に稼がなくても、私のボーナスで連れていってあげるよ〜」
「旅行は命の洗濯だから!必ず一緒に行こうね」

と言ってくれて、普通に涙が出た。


こういう優しい言葉をもらう度に「そんなことをしてもらえるほどの価値が私にあるのか」という疑問にいつもぶち当たる。けれど、以前優しくしてくださるフォロワーさんに同じ質問を投げかけたら、

「私が好きでなごみさんに優しくしてるだけなので、なごみさんが気にすることはありません!」

と力強く断言されたことがあって、それ以来あまり考えないようにしている。


私も、何もできない私も、「生きていていい」のだと必死に思い込むようにした。

だって、そうじゃないとすぐ死にたくなっちゃうから。

障がい者だからとかそういうのじゃない。全ての人間には等しく生きる権利があるのだという「当たり前」を、自分自身にも適用させようともがいているのだ。


いつも「そこに在る権利」について考えようとするとそこから自分を除外する癖がある。私は生きていてはいけない人間だと思い込む癖がある。

けれど、決してそんなことはないはずだ。私にだって「ここに在る」権利はあるはずなのだ。

希死念慮がある人間からするととても難しいことだけれど、ここをクリアしなければ私は一生、どこにいたって、不幸な心持ちのままだ。

「かもめ食堂」でも言っていただろう。「どこにいたって、悲しい人は悲しいし、寂しい人は寂しいんじゃないですか」と。あの台詞を聞く度に私はドキッとする。

私なんかまだまだ恵まれてる方なのに、なぜかいつも寂しくて、悲しくて……。

「かもめ食堂」のあの台詞を聞くと、「どこにいても寂しい人」にはなりたくないと思えるのだ。

人生、なんとかなる。誤魔化し誤魔化し生きていける。

そう思える図太さが欲しい。



なんて、明日の外出が憂鬱で具合悪くしてる人間が言えることでもないかもしれないけど。

明日も暑いのだろう。明後日も暑いのだろう。私が嫌がっているのは「暑い中外に出ること」なので、病院に行くこと自体が嫌なのではない。

あ〜あ、ここしばらく引きこもってた反動で、明日・明後日は汗だくになるんだろうなあ。嫌だなあ。

でも、虫歯は治さなきゃいけないし、薬も貰わなきゃ夜眠れない。


それだけは、ちょっとだけ、頑張ってみますか。

ありがとうございます!生きる励みになります。