途中下車のその先に
今から12年前の夏、大学の3回生だった私は、高知県のとある無人駅に佇んでいた。
目の前に、吸い込まれそうに深い青色の太平洋が広がっていて、規則正しい波の音が聞こえている。夏の日差しが容赦なく照り付け、海がキラキラと光を反射する。線路の柵になっている枕木のような数本の木の板と、椰子の木にも見える背の高い樹木が、この地が南国であることをさりげなく思い出させた。辺りには誰もいない。
とても静かだった。
この景色を、今この瞬間にここで見ているのは、私しかいない。
誰にも知られていない秘密の場所を見つけたような、優越感に似た高揚感を抱きつつ、この世界に自分が一人取り残されているような心地もして、なんだかとても不思議だった。
人っこ一人いない。鈍行列車の旅を選んだからこそ、この駅に出会えた。当時はお金がなくて時間ばかりある大学生の身分だったから、迷うことなくその選択をしたのだけれど、今思うと、本当に贅沢な時間だった。
その一年前、初めて列車に乗って一人旅というものを敢行して以来、行く先々で出会う旅を彩るひとつひとつに、もう本当に病みつきになってしまった。
初めて見る美しい景色。知らないところに一人で向かうわくわく感。旅人同士の会話。
特に夏特有の何とも言えないノスタルジーな空気が、旅の景色にいっそう彩りを添えてくれる。かの有名な久石譲さんの楽曲「summer」に感じるものと同じく、他の季節にはない懐かしさというか、季節の短さゆえのもの寂しさというか、胸がきゅうううっと締め付けられるあの感覚。旅という娯楽を覚えてから、これまで少し苦手だった夏が、とっても素敵な季節だと気付いて、楽しみになった。
その夏、メインの旅先に、高知県を選んだ。当時私は関西在住で、四国は比較的近いイメージだったけれど、四国で唯一本州と橋でつながっていない高知県だけは行くのに時間がかかる、遠いところだと思っていた。だからこそ心惹かれ、行ってみることにした。
旅程は、これまでの一人旅で最長の、5泊6日。お世辞にも使いやすいとは言えない公共交通機関をつぎはぎしながら、道中を楽しむ旅。行く先々で優しい人やおいしいものにもたくさん出会いながら、贅沢な安旅を始めて3日目のことだった。
その日は、高知市から西へ西へ、県内を東西に走る土讃線を、とにかく味わう予定だった。沿線の観光スポットと言っても駅近のところなんてなかなかなく、それゆえに、余った時間はとにかく気になる駅で途中下車をして、次の汽車が来るまでの間、沿線を永遠にぶらぶら散歩することを選んだのだった。
午前中、高知市からさほど離れていない日下(くさか)駅でも、ぶらり途中下車を楽しんだ。こじんまりとした小さな駅舎を出て、田畑が広がるのどかな集落の小道をてくてくと歩く。近くの小学校のプールの入り口に子ども用のサンダルが並び、水しぶきがあがる音と、子どもたちの声が聞こえた。夏休みのプール開放が行われているらしい。
この学校に通う子どもたちは、どんな世界で生きているのだろう。恐らく、就学前から中学校卒業までほぼ同じ面子で過ごすと思うけれど、都会の学校とは、やっぱり違うのだろうか。
旅先で、そこに暮らす人たちがどんな生活をしているのか、想像しながら歩くのが好きだった。
1時間ほど散策した後、次の汽車に乗り、更に西へ西へと進んだ。段々とお店や人家、車が増え、少し大きな駅をすぎてまたしばらく山あいを走ると、やがて海が見えてきた。
「次は 安和(あわ) 安和です。」
自動音声のアナウンスが入った。いよいよだ。
旅程を組むにあたり、土讃線はどんな路線なのかなと、駅をひとつひとつ(Wikipediaで)調べて以来、ずっと気になっていた。サイトに掲載されていた1枚の写真に目を奪われ、この駅に行こう、と決めた。
ホームから海を見渡せるその駅に、私は初めて降り立った。他に降りる人はいない。
乗ってきた2両編成の汽車がゆっくりと発車するのを見送った。
思わず息を呑んだ。目の前に広がるその景色は、画面上で見る何倍も何十倍も、色が濃くて、広くて、静かで、熱くて、美しかった。
時間が止まったかのように、しばらくただそこに立って、ずっと遠くまで続く紺色の海を感じた。暑い暑い日差しを、波の音を、香りを、全身で受け止めた。空間に、心が溶け込んでいった。言い表せないくらい、この駅と景色に出会えたことへの感動と感謝があふれた。世界は広い。まだまだ知らない素敵なものがたくさんたくさんある。それを知り、感じるために旅をするのかなと思った。
そこは、駅舎らしい駅舎もない、小さな駅。車で走っていたら、通り過ぎてしまいそうだ。でも、この駅はずっとこの場所で、どんな海の姿も受け入れながら、毎日毎日列車に乗り降りする人たちを見守ってきたのだろう。恐らく私が生まれるよりもずっと前から。この駅が紡いできた物語を、私が今覗いていることが、とても不思議で嬉しかった。
次の汽車が来るまでの2時間ほど、あてもなく歩き続けた。急な坂をのぼりきると真下に小さく駅が見えて、線路を挟んで向こう側はもうすぐ海だった。特急列車が走っていった。海岸に降りると釣りをしている親子がいるだけで、とても静かだった。ただただ穏やかな夏の海を眺めた。辺りの人家もまばらで、人が歩いている様子もなかった。それでも、少し離れたところには海沿いの集落が見え、やっぱりここにも小学校があって、この地に息づく人々の生活が垣間見えた。ここに住む人は、目の前に広がる海を、どう感じているのだろう。美しい一面も、恐ろしい一面もあるのだろうけれど、生活と切っても切り離せない、この地域の人々の魂と繋がっているものなのかなと思った。私が見たのは、ここに住む人々の、何でもないけれど尊い夏の一日だった。
昼下がり、一日で一番暑い時間帯の、あっという間の2時間だった。汽車に乗り、火照った身体を冷ましながら、余韻に浸った。旅を、これからも続けようと思った。
あれから12年。自分を取り巻くあらゆるものがあのときと随分変わったけれど、あの夏、小さな駅から見た景色が、今でも目に焼き付いている。時に旅への意欲を掻き立て、時に切ない気持ちにもさせるあの景色。思い出す度に、世界の広さに感動し、とってもわくわくしたあのときの気持ちが蘇ってくる。自分が日常で見ている景色は世界のほんの切れ端で、そこから飛び出していろいろなものに出会うことで、人生はもっと豊かになる。そんなことを私に教えてくれたあの夏の景色は、途中下車の先で出会った、私の人生の大切な1シーンである。願わくばまだ幼い私の子どもにも、そんな豊かな旅をたくさんしてほしいと思う。