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雨上がり レインコートで 二人乗り

天気予報は、夕方から雨予報だった。

その日、いつものように急ぎ足で職場を出ると、如何にも怪しげな空模様だった。分厚い灰色の雲が空の低いところに迫っていて、昼間の大気を閉じ込めたままにするものだから、町全体がむっとしている。これはただの雨では済まなさそうだ。

早くお迎えにいって雨が降り出す前に帰らなければ。いや、一旦自転車で家に帰って、車に乗り換えて行く方が正解かな。少しの間逡巡した。こういうとき、私はいつも「念のため」を選べない。まあいいや、その時はその時、と突破してしまう。

自転車を駐輪場から出すときには、もう腕にぽつりとくるのを感じて、雨はあっという間に本降りになった。どうしよう、と思いながらもひたすら息子が待つ保育園の方に進む。着く頃には、世界は激しい雨音に包まれてしまった。水たまりを撥ねる雨の勢いが強くなるばかりで、遠くの方で不穏な雷鳴が響いた。

保育園の中も、いつもより暗い。
むかえにきたよ、おうちにかえろうか。
息子に声をかけながら、私はもはや心ここにあらずだった。やばい、どうやって帰ろう。雨、やばい。家までは、1キロ少々。

ご苦労様です~すごい雨ですね~と話しかけてくれた先生は、まさかこの母親が自転車で、レインコートも持たず来たとは思わなかっただろう。お、おつかれさまです、やばい、ど、どうしようかな…誰かに聞いてもらうでもない声でぼそぼそとつぶやく。

じ、自転車しかなくて、どうしようかなと思って…着地点の見えない私のつぶやきを聞き取った先生が、まあそれは大変!と世話を焼いてくれた。
自転車はここに置いていてもいいですよ。カッパはありますか?
家はどの辺りですか?
息子くん抱っこで傘だと大変かしら。おんぶひもあるけど使いますか?使い方難しいかな~。

すみません、とおどおど目を泳がせるばかりの私に、何人かの先生たちが構ってくれて、職員でカッパ持ってる人がいると思うので聞いてきますね!とひとりの先生が職員室に向かって2分後には、もう私の手に大人用、子ども用、それぞれのレインコートがあった。
雨は相変わらず地面を激しく叩いていて、まだ止む気配がない。何度も何度も確認している雨雲レーダーは、現在地を見事に真っ赤に示していて、それが過ぎたとしても次は緑ゾーンが控えているらしい。

ほんとにありがとうございます~~!と、甘えればいいのだと思う。自分がもし逆の立場で、予備のレインコートを持っていたら、心から、使ってくださいと差し出す。なのに、いつも恐縮するばかりで、ありがとうございます、が潔く出てこない。感謝するよりも先に、予報が出ていたのに自転車で来た自分を、子どものレインコートすら常備していない自分を、雨が降り出す前に仕事を終えてお迎えに来れなかった自分を、卑下する気持ちが頭をもたげてしまう。

レインコートを借りて、自転車を置いて、子どもを抱っこして、歩いて帰ろう。
やっと決心がついて、ありがとうございます。助かります。と言えた。本当は、最初からこうしたかったのだ。そして、息子が普段過ごしているこの優しい世界では、こんな私を、準備ができていないお母さんねぇ、なんて呆れた目で見る先生も保護者も、多分いない。

私が大人用の黒いレインコートを着ている間に、先生が息子にギンガムチェックのレインコートを着せてくれた。貸してくれた先生の名前も、ちゃんと聞けた。

激しい雨の中、自転車を保育園の軒下に入れようとすると、辺りが一瞬、とても明るく光り、すぐさま世界が割れるような雷鳴が響いた。他のクラスの子が、思わず頭を抱えてしゃがむ。2~3回、ばりばり、どーーん!!と続いた。
息子は、泣くでもなく、喜ぶでもなく、呆然と外を眺めていた。くるま?の問いに、車はないの、とさっき答えたのをわかっているみたいで、彼なりにこの状況を逡巡しているようだ。
さすがに今外に出るのは危ない。雨脚が弱まるのを願いながら、何度か雷をやり過ごすと、少しずつ水たまりに広がるいくつもの波紋が小さく、少なくなってきた。

その後すぐに雨は止み、空を見上げると南の方がほんのり明るくなっている。歩いて帰るつもりだったけれど、これは自転車で帰れるかもしれない。もし途中で降ってきたら、道中のスーパーにでも自転車を置いて、歩いて帰ろう。レインコートを着たまま、ありがとうございました!とさっきより大きな声で言って、一度しまった自転車に息子を乗せ、出発した。

この地域の気候なのか、夕立の後はぐっと気温が下がる。
大雨が昼間の蒸された大気ごと持って行ってくれて、ひんやりとした空気に入れ替わっていた。
息子のお気に入りスポット、駅の線路沿いを走る頃には、雨に遭いませんように、なんていう不安はすっかり忘れていた。なんだか心がほかほかした。怖かったねぇ、びっくりしたねぇ、先生たち優しかったねぇ。
めっちゃあめふったー。めっちゃごろごろゆったー。の息子の言葉と同時に、自宅に到着した。レインコートは、「あつい」そうなので、脱がせて自転車から息子を下ろした。その日、息子はお風呂で何度も「めっちゃあめふったーめっちゃごろごろゆったねー」と繰り返していた。

保育園の連絡帳に、ありがとうございました。無事に帰れました。お心遣いがとても嬉しかったです。と書いた。
濡れなかったレインコートを、できるだけ丁寧にたたんだ。




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