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まったくしょうがないなと神様が手を差しのべてくれた話

どうしよう。帰れない。

バケツをひっくり返したような、という表現がまさにふさわしいレベルの雨に打たれながら、私は途方に暮れた。
側溝からは雨水があふれ出し、すでに足首近くまで浸かっている。靴が水を含み、重たくぐっしょりとして不快だ。そんな中、私はいつも愛用している電動アシスト付き自転車の横に立ち、自転車が倒れないように必死にハンドルを握った。同時にもはやあまり意味をなしていないビニール傘を左手で差しているものだから、自転車はふらふらと不安定だ。
自転車の後ろに付けた幼児用の椅子には、ヘルメットをかぶり、レインポンチョを着た2歳7ヶ月の息子が座っている。髪の毛から滴を滴らせながら、泣くでもなく、怒るでもなく、呆然とした表情で目を白黒させていた。
辺りはもう暗い。自宅までは、1キロほどの道のりだ。

ああ、こうなる前に判断を変えるきっかけは、いくつもあったのに。
なんでこんな風に、いつも無茶をしてしまうんだろう。

夫が泊まり勤務だった金曜日。仕事の打ち合わせが長引き、職場を出たのは延長保育に入る時間の15分ほど前だった。
夕方から雨予報だったから、カバンには息子のレインポンチョを忍ばせている。
外に出ると、空を黒い雲が覆っていて、雨はもう本降りだった。
自転車を職場に置いて、一度徒歩で家まで帰り、車でお迎えに行くのが賢明か。でも、そうするとお迎えまであと30分くらいかかってしまう。最近ずっと私のお迎えが遅いので、先生たちに申し訳ない。
今日は息子のレインポンチョを持っているから、私が濡れるだけなら大丈夫だろう。安直な考えのまま、自転車に跨って、保育園へ急いだ。

保育園に着く頃には、雨脚はますます強くなっていた。
部屋に入り、息子を抱っこし、「自転車?雨どうかな。」「レインコートは持ってます。」「じゃあ大丈夫かな!」そんな会話を主任の先生と交わした。
しかし、そんな楽観的な見立ては、保育園の玄関のドアを開ける前に打ち砕かれた。
地面を叩きつける激しい雨。運動場からは砂交じりの泥水がすでに駐車場方向に流れ始めていた。辺りの音をかき消すほどの雨音は、玄関ドアを隔てた室内にも響いている。

これ、帰れるんだろうか。

自転車を置いて、息子を抱っこして帰るか。
いや、12キロ弱の息子は自転車に乗せて押して帰った方が楽かもしれない。
息子をもう少し置いてもらって、私だけやっぱり車を取りに帰ろうか。
いや、そしたら先生たちの退勤時間がますます遅くなってしまう。

結局、息子にレインポンチョを着せ、私は片手にビニール傘を差しながら自転車を押し始めた。今日は金曜日。明日からお休みなので、お昼寝布団という大荷物もある。
保育園の敷地から出て左折しようとしたとき、ビニール傘が風に煽られたことに気を取られ、早速車体がふらついた。あ!!と思った時はすでに遅く、息子を乗せたまま自転車は左方向に倒れた。とっさに手をついた息子は一応無傷だったけれど、あまりにも危険だ。

もう、これは無理だ。
頭ではわかっていても、どうすることもできず、私は途方に暮れながら自転車を押し続けた。息子が話しかけてくれるのが聞こえるけれど、雨音でかき消され、何を言っているのか全く聞こえない。

住宅街を抜け、少し大きめの通りに出てきた。もうすぐスーパーがあるから、そこで一旦自転車を止めよう。側溝にはまらないように注意しながら、なるべく端っこを歩いた。
すると、前方で一台の軽自動車が止まり、目の前の月極駐車場に入っていった。中には若い女性が一人。運転席の窓が開き、私たちに何か声をかけてくれたけれど、やっぱり雨音で何も聞こえない。私はひとまず車が止まったのを確認して再び自転車を押した。車を横切った後、もしかして乗ってください、と言われたのだろうか?と振り返ると、女性は急いで後部座席の荷物を整理し、人を乗せるスペースを確保してくれているようだ。
どうやら、乗せてもらえるらしい。申し訳ないと同時に、ものすごくほっとした。

車から出てきた女性をよく見ると、息子の保育園の先生だった。「〇〇組のもも先生だよ。」びっしょびしょのまま車に乗せられた息子を振り向いて、もも先生は声をかけてくれた。
自転車を駐車場の隅にとめ、車に乗り込み、息子を膝に抱えて家まで送ってもらった。

すみません、ちゃんと車を取りに帰っていれば…
自転車を置いて保育園までタクシーを呼べば…
そもそも、もう少し早く職場を出られれば…
こんな親で、すみません。迷惑かけて、すみません。

雨の中強引に自転車で帰ろうとして足止めを食らうのは、何も今回が初めてではない。

このときも、保育園の先生たちの協力で私と息子のレインコートを借りられたのだ。このときは幸い雨が止んだからよかったね、で済んだけれど、いつもそうとは限らないなんて、誰にでもわかるのに。
なんで、またこの失敗をしてしまったんだろう。

反省と自責の念で、うわごとのように謝罪ばかりする私に、まだ若いもも先生は、こんなに雨降ると思わないですもんね、お仕事もあって大変ですよね、とたくさんフォローしてくれた。
息子は車中ずっと無言で固まっていた。怖かったね、寒かったね、びしょびしょで気持ち悪いね。こんなかーちゃんで、ごめんね。

車を降りる頃には、雨は幾分小康状態になっていた。私たちが座っていた車のシートはぐっしょりと濡れていて、ただただ申し訳なかった。けれど、本当に助かった。ありがとうございましたと頭を下げ、息子を抱っこして、自宅マンションの玄関を開けた。

ももせんせい、くるまのせてくれた?

抱っこした腕の中で、息子が急に口を開いた。

そうだよ、君とかーちゃんがすごい雨の中帰るのを見つけて、助けてくれたんだよ。ありがとうだね。

息子に言いながら、息子ともも先生へのたくさんのごめんなさいと、たくさんのありがとうが胸に溢れた。
涙がとめどなく流れた。

息子くんが風邪を引いてしまう。雨の中事故に遭うかもしれない。
もも先生は、居ても立っても居られなかったのだろう。
お母さん、息子くんがいるんですから、しっかりしてくださいよと、そう言いたい気持ちもきっとあっただろう。
情けなくて、申し訳なくて、でも手を差しのべてくれた優しさが、とっても嬉しかった。

ももせんせい、くるまのせてくれた?
あめ、やんだ?
家に帰って、いつも通りご飯をもりもり食べながら、息子は明るい表情で、何度も何度も聞いてきた。

この子がいるから、やっぱり無茶なことをしてはいけない。
けれど、この子がいるから、助けてもらえた。
気が付くと、雨はすっかり上がっていた。

寝る前、息子は窓越しにお月様を見つけた。
時折雲に隠れながら、私たちを照らしてくれている。
やれやれ放っておけない親子だなと、お空で少し呆れながら、笑ってくれているような気がした。



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