私が私について考えることをやめたわけ
梅雨明けしてから、途端に夏の暑さが始まった。
徐々に暑くなるのではなくいきなりトップスピードの30℃越えが連日続いていて、このまま9月頃までこの調子なのだろうかと思うと気が遠くなる。「その頃まで干からびてなけりゃ御の字」のレベルである。夏は好きなのだが、好きとか言ってられない程に最近の夏は暑い。
そんな中、今日は前から気になっていたジェラート屋に行った。自転車で30分程の場所にあるのだが行き帰りの暑さが本当に地獄だった。家に帰ってからはなんだか頭痛がするので冷えピタを貼っている。ジェラート食べたさのために命懸けの外出ができるくらいには食い意地が張っている。
ところで私は食い意地も強いが、生存欲求もかなり強い。絶叫マシンや高い所が大の苦手だし、テレビでそういったものを見るだけで胃がふっと浮くような薄ら寒い心地がする。絶叫系が大好きだという人を見ると「死にそうになる行為を好むなんて生き物としてあるまじき姿!」とか思ってしまう。大きなお世話ですよね。
うつ病がひどかった数年前は毎日のように死にたい消えたいと思いながら生活していたのだが、その裏返しは「本当はすごく生きたい」だったのだろうと思う。すごく生きたいし楽しく充実して暮らしたいのにそれが叶わないから「わーっ!」ってなっちゃってただけで、本当は全然死にたくなかった。自覚はしていなかったけど。
今はなるべく心に波風を立てないようにそーっと生きているつもりなのだが、それでも気持ちがグッと下がってその頃の考えがよぎってしまう時がある。
だが、そこで違和感を感じたのだが私は「生きたい」はずなのだ。なのになぜそんな考えがよぎるのか?
前に別の記事でも書いたが「生物の生きる目的は生きること」だから、基本的に「生きたい」と思うようにプログラミングされている。しかもその欲求が私はかなり強いのではないかと自負しているのだ。
だから「死にたい」と思ったとしてもそれは私の意思じゃない。うつ病という病気が、ストレスその他でやられた脳の神経系がそう思わせているだけで私は全然死にたくないはずなのだ。
ちなみに脳の働きを正常に戻すには、神経を治す薬を飲むこともしくは経験の塗り替えが必要だ。過去の失敗によって刻まれた負の経験を、成功によって正の経験に塗り替える作業だ。また、失敗も成功も単なるデータの収集だと思って自分の価値と紐付けないという意識も必要だ。
話がそれたが、結論「生きる」も「死ぬ」も自分の意思で決められることではないと思う。
「生きたい」は生き物として生まれた以上最初からプログラミングされている目的だし、仮に「死にたい」と思ってもそれは脳が受けたストレスによってもたらされた不具合であって、自分の意思や感情ではないのだ。死にたくなった時それは自分の意思だと思っている人がいると思うが違う。「ストレスにそう思わされている」のだ。
黒いものほど光を集めるように負のパワーは強い。メディアに溢れる嫌な情報、過去の失敗、記憶、未来への不安、隣人への僻み、妬み嫉み、全てを吸ってあっち側へと強力に引っ張る力がある。
生き物が死ぬときは神様にその体を返すときだ。与えられた寿命は個体によって様々で借りられる期間が決まっているが、前倒しで返す資格は生き物にはない。「お前が決めるな(by神)」なのだ。
生きたいも死にたいも自分では決められなくて、目的もプログラミングされているし自分の感情だと思っているものは良いも悪いも過去の経験が作ったただの反射だとしたら自分て一体なんなんでしょーねという気持ちになる。
はっきり言って、自分なんてない。自分はただの群れのうちの一個体だ。その中でできる役割も決まっている。その役割を才能だ個性だと言い換えたりもするが、全部の個体が同じ働きをしていると外敵に襲われたときに脆いので色々な個体がいるだけだ。本当に、人間はどこまでもただの生き物でしかない。
だから私は自分について深く考えることをやめた。意味がないからだ。何年も何年も散々、寝ても覚めても自分と向き合ってきて思う。自分なんてない。考えるだけムダ。飯食って寝て働ける分だけ働いて、好きなことしたり暇な時間はNetflixにでも入って面白い番組を観たりすればいい。(今さら愛の不時着にハマってます)
群れの中の一個体として役割を全うするのはとても幸せなことだと思う。それはその個体だけに与えられたギフトだから、他の個体ではできないことだったりするから。その役割がわからなかったりする人が大半だけど、「なんかこれするの嫌」とか「これしてると楽しい」とかを信じればいい。「なんかこれするの嫌」なことしかできない環境だったら意地でも変えたいと個人的には思う。だってそれ私の役割じゃないから。
人間がみんな自分の役割を自覚して生き生きと暮らせるようになれば、人類はもっともっと繁栄していくと思う。