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障がいについて考える

先にことわっておきますが、今回は少々グレーな話をします。
なるべく偏見やこじつけがないようにしますが、もしあったらすみません。

NHKの番組で見たギリギリ

先日NHKの番組で小学生に向けた障がい者教育が紹介されていました。番組のラスト、障がい者に対するコメントを生徒が述べるシーンで、一人の男の子の発表が耳に留まりました。

「もしかしたら僕も障がい者なのかもしれないと思いました。障がいは持ち味の一つだからです。僕も持ち味があるので、障がい者かもしれないと思いました。」

ぶっちゃけどう思います?

私はこの発言、かなりギリギリだなと感じてしまいました。もちろん1人の少年のコメントであり番組の意思というわけではないのでしょうが、これを公共の電波に流すのはいかがなものか…と。

何がギリギリなのか?

このコメントのギリギリな部分はやはり「障がいは持ち味」と定義してしまっているところでしょう。実際ある程度的を射てはいるんですが。

「持ち味」という表現は引っかかりますが、障がいを他の個性と似たものとして扱うこともできなくはないのかもしれません。車椅子に乗っているという個性、目が見えないという個性。おかしい感じはしません。

しかし障がいには「日常生活を送る上で何らかの支障がある」という意味が含まれています。身長が高い低いとか頭がいい悪いといった他の個性とイコールで結ぶのはまずい気がするんです。

仮に彼が発表した教室に障がいを持っている生徒がいたら、彼あるいは彼女はどう思うでしょう?自分がこれまで向き合ってきた障がいを他の個性と並列に扱われ、軽んじられていると感じるのではないでしょうか?

障がいはグラデーションであり、それが一定の基準値を超えたことが表出して初めて障がいを持っていると認められるのは事実です。そういった点では障がい者と定められていない人も、障がいに至る因子をある程度は持っているのかもしれない。しかしながら「自分も障がいを持っているかもしれない」という発言は、彼らを突き放し心を傷つけうるものであることを忘れてはなりません。

パラリンピックはどう見るべきか

障がい者の世界的な大会として知られるパラリンピック。みなさんはどんな感情を抱きながら見るでしょうか?

典型的な感想として「障がいに負けずに頑張っていてすごい」というのがあります。でも私、これに少々引っかかってしまいます。
彼らは障がいに負けないためにスポーツをやっているのでしょうか?

憐れみの心を持つことは傲慢です

当事者の方々は障がいを自覚し、それと向き合ってきたはずです。そして障がいとともに生きていくことを決意している。彼らと障がいの勝負はとっくについています。彼らがスポーツをするのは障がいに負けないためではなく、障がいがあっても最大限のことがしたいと思った結果なのです。

一方で「障がいに負けずに頑張っていてすごい」という感想はどこから出てくるのか。答えは簡単です。自分たちと障がい者に明確な区別を設け、憐れみの心を持って発言しているのです。「辛いですよね、心中お察しします」と物知り顔で。

障がいを持つ人と持たない人の間には生活を送る上で避けられない違いがあるとはいえ、この考え方は障がい者を庇護の対象と置いている点で彼らの尊厳を損なうものになり得ます。

障がいの有無にかかわらず、みな対等な人間。憐れみの心で障がい者を見ることは、彼らに対する傲慢そのものなんです。


障がい者とどう向き合うか。これは世界の平和を実現する上で確実に解決しなければならない問題です。私の一言で1人でも変わる人がいれば、この記事を書いた意味があります。

この記事全体を通して、私は障がいを持つ方の思いを重要視してきました。しかし彼らが生物学的に脆弱であることは間違いありません。彼らを保護対象として慎重に扱うという考え方も、彼らを守る上では間違いとは言い切れません。今回の内容はあくまで考え方の1つとして心の片隅に置いていただけるといいかと思います。

それではこのへんで。

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