【12日目】祖母の死と、牡蠣による体調悪化と、その当事者研究
─執筆者 國井─
まさか、牡蠣を食べて体調を崩すとは。読者諸君からすれば、ベタ過ぎて何も笑うことはできないだろうが、丸1日寝込んだ僕も別の意味で笑うことができない。牡蠣を食べにドライブした話の詳細は、前回のTakaさんに譲ろうと思う。
Takaさんは牡蠣を食べたその日に腹を下し、BBさんは嘔吐したらしい。それを馬鹿にしていた僕も、翌朝体調を崩し、嘔吐した。
僕は震えて布団にくるまり、悪夢にうなされ、唸る自分の声で目覚める、ということを幾度も繰り返していた。体がだるく、買い物に行けず、一日中何も食べなかった。スマホをいじることもできない。一人暮らしをしているものだから、僕の体調の悪化を知る人は誰もいなかった。そしてその心細さが、いっそう身が応えた。こういう時ほど、余計なことを考えてしまうものだ。
僕が最後に風邪を引いたのは3年前だ。そう思うと、もう3年も風邪をひいていなかったのかということに驚かされる。とにかく、ずいぶんとその辛さを忘れて生きてきたものだから、今回は風邪をひく辛さがいつもに増して感じられたのである。そんな中で僕を支えていたのは「まあ、2,3日で治るだろう」という確信だ。
ホメオスタシスともいうべき、恒常性を保つ体内の生理学的仕組みによって、私はいずれ回復するという確信。これは、20代という若さゆえだろう。もし私が80代で、不治の病に侵されていたとしたら、それでもこの身が病に打ち勝てると信じることができるだろうか。
たかが牡蠣で体を崩しただけで何を大げさな話をとも思われるだろう。だが、先月死にゆく祖母をみとった僕にはこれを語る権利があると思う。
僕の祖母は1月に入院し、2月からは訪問医による診察で自宅で看病を行っていた。年齢的にも、病名からも、祖母がもう一度元気になる見込みはないと思えた。つまり、現代医学の視点から、祖母の容態は今後、死ぬまで悪化の一途をたどると思われた。祖母は予想通り、日に日に体が弱っていった。それでも僕は、「暖かくなれば元気になる」と祖母を励ましていた。なぜなら、もし仮に「自分は二度と元気にならない」と祖母が確信してしまったとき、祖母が生きる意味を見出だせるのかわからなかったのである。あるいは何も見出すことができなくなってしまうかもしれない。僕にはそれが怖くて、ただ、いつか元気になると声をかける他はなかったのである。
次第に祖母ベッドから起き上がれず、体も動かせず、声も出せないようになって、私も「いつか元気になる」という言葉をかけることができなくなってしまった。口に出そうとしても、本当はもう二度と良くならないし、間もなく死んでしまうという直感が言いようもなく虚しくなって、涙が止まらなくなるのだ。五感のうち聴覚が最後まで機能すると聞いたことがあった。だから僕は涙が出そうになると、祖母に悟られぬようにしゃべるのをやめねばならなかったのだ。
そうやって次第に、死にゆく祖母へかける言葉は「大丈夫」や「安心して」など、目的語のわからぬ曖昧なものへと変化していった。これはつまり、いずれも「死ぬこと」を前提として語る口調に変化していたのである。
果たして何が正しかったのだろか。僕はそれでも、祖母に、いつか回復するということを話し続けるべきだったのだろうか。それとも、死すべき運命を恐れずに向き合うことを説けばよかったのだろうか。この局面において僕は、少なくとも自らに答えを出すことができなかった。
ただ、祖母の死にざまは一つ、私に答えを示してくれたとも思う。祖母は声帯の枯れる最後まで、家族を気にかけ、感謝の言葉を口にしていた。それは困惑する僕たち家族の救いでもあったし、同時に祖母の心からの声でもあったのだろう。
不満を漏らさぬままに息を引き取った生への向き合い方に、僕は「然り」と声を聴いた気がした。祖母や、私や、人間が、時間と空間によって制限される存在である以上は、この恍惚は無限に繰り返す。
今では、体調はだいぶ良くなった。風邪を通して痛みを知ったし、寝込む中で私を支えてくれる人もいた。「あまりもの」の名にふさわしい珍道中で、なんとも言えないダサさ、キモさがあるけれど、それもそれで僕たちの良さなのだろう。なにも問題じゃない。